那須資藤
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時代 | 南北朝時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 正平10年/文和4年3月12日(1355年4月24日)[1] |
別名 | 太郎[2]、五郎[2] |
戒名 | 全慶英華蓮清院[2] |
官位 | 備前守[2] |
主君 | 足利尊氏 |
氏族 | 那須氏 |
父母 | 父:那須資忠 |
兄弟 | 資藤、資旨(資尚)(初名)・太郎・遠江守[2])、資宗、蘆野資方 |
子 |
資世、金丸資国[2]、南条義藤(南城)[2]、 女子3人[2] |
那須 資藤(なす すけふじ)は、南北朝時代の武将。那須氏9代当主。
8代当主・那須資忠(太郎・太郎左衛門・安芸守・金江英秋月桂院[2])の子として誕生。南北朝の騒乱の際には北朝に味方した。
正平4年/貞和5年(1349年)からの観応の擾乱では足利尊氏方につき転戦したが、正平10年/文和4年(1355年)、足利直冬との戦いで弟・蘆野資方(蘆野氏の祖)らと共に戦死した。
家督は子・資世(安王丸・太郎・越後守[2])が継いだ。資藤の子から金丸氏、金枝氏、小滝氏などの支流が分かれている。