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那須資藤

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
那須資藤
時代 南北朝時代
生誕 不明
死没 正平10年/文和4年3月12日1355年4月24日[1]
別名 太郎[2]、五郎[2]
戒名 全慶英華蓮清院[2]
官位 備前[2]
主君 足利尊氏
氏族 那須氏
父母 父:那須資忠
兄弟 資藤資旨(資尚)(初名)・太郎・遠江守[2])、資宗蘆野資方
資世金丸資国[2]南条義藤(南城)[2]
女子3人[2]
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那須 資藤(なす すけふじ)は、南北朝時代武将那須氏9代当主。

8代当主・那須資忠(太郎・太郎左衛門・安芸守・金江英秋月桂院[2])の子として誕生。南北朝の騒乱の際には北朝に味方した。

正平4年/貞和5年(1349年)からの観応の擾乱では足利尊氏方につき転戦したが、正平10年/文和4年(1355年)、足利直冬との戦いで弟・蘆野資方蘆野氏の祖)らと共に戦死した。

家督は子・資世(安王丸・太郎・越後守[2])が継いだ。資藤の子から金丸氏金枝氏小滝氏などの支流が分かれている。

脚注

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  1. ^ 大日本史料』第6編之19 730頁
  2. ^ a b c d e f g h i j 『寛政重修諸家譜』

出典

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