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那須資房

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
那須資房
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 天文21年11月15日1552年11月30日[1]
別名 太郎[2]
戒名 笑月源藤[2]/孤峯院笑月源藤[3]
咲月源藤大禅定門[4]
官位 大炊助左衛門大夫大膳大夫修理大夫[2]
氏族 那須氏
父母 父:那須資実、母:那須明資
兄弟 資房武茂氏[2]/茂木氏[5]室、佐竹氏義[2]稲澤播磨守[2]木須頼実[5]
資衡[2]資仲[2]
政資
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那須 資房(なす すけふさ)は、戦国時代武将那須氏17代(公称上では20代[6])当主。

下那須家当主・那須資実の子として誕生した。

寛正4年(1463年)、宇都宮義員らと岩城常隆と交戦し敗北するが、縄釣原の戦いでは勝利を収めた[7]明応3年(1494年)、父・資実が没すると下那須家の当主となる[8]永正6年(1509年)6月3日、塩谷城主・塩谷孝綱の家臣である大貫増長油井利宗印西成展らの謀反を誘発させようとするが失敗した[9]

永正11年(1514年[10]、那須氏15代(上那須家)当主・那須資親の死後、資親の実子・山田資久と養子・那須資永の間で家督争いが生じる。資房は資久を支持するが、内紛の最中に資久が資永に殺害されて上那須氏が断絶、資房は大田原資清らと共に資永を攻め自刃に追い込み、子・政資を上那須家の当主に据え、那須氏を事実上統一して実権を握った[11]

この資房の行動に対して資永の実兄・結城顕頼を中心に岩城氏下野宇都宮氏など近隣の諸勢力が那須氏に攻め寄せる事となる。永正17年(1520年)、岩城由隆白河結城氏と共に[12]資房の子・政資を攻めるが、資房は宇都宮忠綱から援軍を得て政資を支援し、縄釣原で岩城軍を破っている[13]。翌大永元年(1521年)、岩城由隆が宇都宮忠綱や小田政治を誘い、資房の上川井城を攻めるが、資房が烏山城に退くと撤兵した[14]。資房はこの局面を打開するため、常陸国佐竹氏の仲介で岩城常隆の娘を子・政資に娶わせ和睦を結んだ。

その後、家督を政資に譲り隠居したが、子・政資や孫・高資よりも長生きした。もう一人の孫・資胤が当主になった後の天文21年(1552年)、死去。

脚注

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  1. ^ 『史料綜覧』第9編之910 361頁
  2. ^ a b c d e f g h 『那須系図』
  3. ^ 『系図纂要』
  4. ^ 『那須譜見聞録』
  5. ^ a b 『寛政重修諸家譜』
  6. ^ 資房より17代後の当主である那須正美が自身を37代目当主と称しており、現在の那須氏は上那須家・下那須家を両方とも正式な当主と見なしていると思われる。詳細は那須氏#系譜を参照。
  7. ^ 『史料綜覧』第7編之908 158頁
  8. ^ 『史料綜覧』第8編之909 2頁
  9. ^ 大日本史料』第9編之1 772頁
  10. ^ 永正13年(1516年)とも。
  11. ^ 『大日本史料』第9編之6 316頁
  12. ^ 「白河義永」とあるが結城顕頼のことか?
  13. ^ 『大日本史料』第9編之11 173頁
  14. ^ 『大日本史料』第9編之13 328頁

出典

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  • 『那須系図』
  • 系図纂要
  • 『那須譜見聞録』(十 十一)
  • 寛政重修諸家譜』(七百三十五)
  • 『那須記』(六 塩谷孝綱郎従等起請事)