遠山康光
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遠山 康光(とおやま やすみつ、? - 天正7年3月24日(1579年4月19日))は戦国時代から安土桃山時代の武将。後北条氏の家臣。遠山直景の次男。兄に遠山綱景、子に遠山康英がいる。
生涯
[編集]遠山綱景の弟とするのが通説であるが、浅倉直美は名乗りや活動時期から兄とされる綱景と20歳近くの年齢差が想定されることや『小田原衆所領役帳』で遠山一族は綱景が筆頭を務めている江戸衆に属するのに、康光だけが小田原衆に属して相模国中郡に所領を与えられていることから、元々遠山一族では無く娘婿など婚姻関係によって遠山の家名を与えられた可能性を指摘している[1]。
北条氏康より「康」の字を与えられ近臣に取り立てられた。甲相駿三国同盟が破綻すると、すでに家督を譲っていたにもかかわらず氏康の主導により上杉氏との交渉が始まり、康光はその外交取次として活躍。越相同盟が成立したが、同盟が上手く機能することはなかった。元亀2年10月に氏康が病死すると、元々武田氏との敵対に反対であった氏政は同盟を破棄、取次であった康光は責任を取らされて失脚し、人質として送られていた北条三郎の元へ退転した。北条三郎は名を上杉景虎と改め上杉謙信の後継者候補となる。康光は側近として景虎を支え、御館の乱が勃発した際には、後北条氏の援軍を呼び寄せ戦おうとするが、冬が近づいてきたこともあり、北条勢は撤退。後北条氏を頼り小田原城に逃れようとしたが、鮫ヶ尾城主・堀江宗親の謀反に遭い景虎は自害、康光も後を追い自害して果てた。
脚注
[編集]- ^ 浅倉直美 著「側近く仕えて氏康を支えた家臣たち」、黒田基樹 編『北条氏康とその時代』戒光祥出版〈シリーズ・戦国大名の新研究 2〉、2021年、72-73頁。
参考文献
[編集]- 黒田基樹『戦国北条家一族事典』戎光祥出版、2018年。
- 丸島和洋『戦国大名の「外交」』講談社〈講談社選書メチエ〉、2013年。