近藤重蔵ゆかりの地
「近藤重蔵ゆかりの地」(こんどうじゅうぞうゆかりのち)は、北海道上川郡和寒町字塩狩にある石碑(記念碑)。江戸時代の蝦夷地探検家である近藤重蔵(1771年 - 1829年)の事跡を記念して建立された。
由来となった事跡
[編集]近藤重蔵は1807年の第5次蝦夷地調査の折、11月10日(文化4年10月11日)に、ノカナン(現・士別市上士別金川川口の天塩川上流左岸の夷家)を出発して山中で野宿し、11月12日(10月13日)にビビ(現・比布町比布川川口付近の番屋)に着いた[1]。
記念碑の建立
[編集]碑文では
近藤重蔵は1807年8月9日函館を発して海岸添を来たが、海が荒れて利尻には渡れず抜海宗谷で実情を調査して天塩川をさかのぼり、この地に野宿し、死亡した従者をここに埋葬して上川入りをし、比布の棚瀬に出た。1928年9月砂利採集の折り、ここから日本刀一振掘り出したので近藤重蔵ゆかりの地として永久に保存したい。佐藤千洲
と伝えている。
従者死亡や副葬の記録、発掘品に関する記録や現物については不明だが、1968年9月23日には坂東幸太郎(元・旭川市長、揮毫)、佐藤千洲、伊藤善弘(元町教育長)、須貝謙二郎(土地提供者)、莅戸三郎(ニレの木寄贈者)の5人が「近藤重蔵ゆかりの地」木標を建立。この年は開道100年にあたることから、建立式には5人のほか当時の芳賀敏夫町長ら4人も出席した。1976年10月9日には、近くの牧場から掘り出した高さ0.7 メートル、幅1.4 メートルの石を使って和寒町が石碑を建立、題字は芳賀町長が記した[2][3]。
石碑は2021年6月4日まで国道40号とマタルクシュケネブチ川が交差する辺りにあったが、国道のかさ上げで碑が低くなり見劣りがすること、堤防の造成で台座の一部が埋まったことなどの理由から同月、和寒町は300 メートルほど南の旧塩狩温泉跡地内駐車場東側に台座を新設して石碑を移設した[4]。石碑は近藤重蔵生誕250年記念行事を機に一般に披露された[4][注釈 1]
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 高橋基「近藤重蔵の「テシオ越」ルート考」(1998)
- ^ 『和寒町民逸話集 凍裂のひびき―昭和・平成編―』(2005)pp.238-239
- ^ 『和寒町百年史』(2000)p.943
- ^ a b c “「天塩越え体験イベント」パンフレット”. 北海道和寒町 (2021年9月). 2022年6月22日閲覧。
参考文献
[編集]- 和寒町 編『和寒町百年史』北海道和寒町、2000年3月。
- 和寒町教育委員会 編『和寒町民逸話集 凍裂のひびき―昭和・平成編―』北海道和寒町、2005年12月31日。
- 高橋基「近藤重蔵の「テシオ越」ルート考」『北国研究集録』第2号、名寄市北国博物館、1998年3月31日、1-34頁。
関連項目
[編集]座標: 北緯43度58分27.8秒 東経142度27分17.4秒 / 北緯43.974389度 東経142.454833度