近藤藩
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概要
[編集]慶長15年(1610年)、近藤政成が信濃高井郡5000石、美濃国4郡において5000石の合計1万石を領したことから、近藤藩が成立した。政成は織田信長に寵愛されたことで有名な堀秀政の四男で、堀秀治の弟に当たるが、近藤重勝の養子となっていたため、近藤姓を称していた。
慶長15年に秀治の跡を継いでいた越後高田藩主・堀忠俊が改易されたため、松平忠輝の所領から1万石を割かれる形で与えられて、藩主となった。政成は大坂の陣において永井直勝配下として参加し、功を挙げた。しかし元和4年(1618年)6月、31歳で死去した。子の近藤重直(百千代)が跡を継ぐが、7歳の幼少であったことから、所領相続は5000石分しか認められず、伊那郡に替地となり、近藤藩は減封廃藩となった。
廃藩後
[編集]重直の死後、子の重信が4300石を相続し、弟の近藤重興に700石を分知した。孫の政徳の代に幕府に願い出て若年寄支配・江戸定府となり、子孫は4300石の上級旗本として幕末まで存続した。知行所は当初、伊那谷の立石村に存在したが、寛政年間以降、山本村に移転した。領地は山本村、上穂村、大草村、小川村、立石村、小松原村、河内村、栗矢村、合原村、梅田村、鴨目村、恩沢村、大島村、大久保村、分知領は粒良脇村、北又村、大平村、下梅田村である。(いずれも現在の飯田市、下條村、阿智村、阿南町などの一部)。
歴代藩主
[編集]- 近藤家
外様。1万石。
- 政成(まさなり)
参考文献
[編集]- 『角川日本地名大辞典 20 長野県』角川書店、1990年。