コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

近藤守

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 近藤 守 
Mamoru KONDO
基本情報
名前 近藤 守
生年月日 (1949-05-09) 1949年5月9日(75歳)
身長 168 cm (5 ft 6 in)
体重 84 kg (185 lb)
国籍 日本の旗 日本
出身地 千葉県
経歴
テンプレートを表示

近藤 守(こんどう まもる、1949年5月9日 - )は千葉県出身のプロゴルファー

来歴

[編集]

中央工学校卒業後の22歳からゴルフを始め、1975年にプロに転向[1]

1987年には茨城オープンで初優勝し[1] [2]1988年にはハワイパールオープン横井ジョウジ泉川ピート白石達哉と並んでの10位タイ[3]に入った。

1988年のペプシ宇部では初日に67をマークし、中村通羽川豊青木功と並んでの2位タイ[4]でスタート。2日目には68とスコアを伸ばし、通算9アンダー135で陳志明中華民国)と首位タイで並んだ[5]。最終日も他の選手のスコアが伸び悩む中で着々とスコアを伸ばし[6]、15番までに3バーディー、1ボギーで11アンダーの単独首位に立つ[2]。16番でボギーを出し倉本昌弘に並ばれたものの、最終ホールでは7番アイアンで放った第2打をピン手前1mに着けると、先にホールアウトした倉本の見つめる前で会心のバーディーパットを沈める[2]。プロ2勝目と14年目でのツアー初優勝を飾り、プロ14年間で稼いだ金額に相当する賞金900万円を獲得[2]

1994年6月には森静雄が主催する日本初のミニツアーに出場し、優勝賞金100万円、2位60万円をかけた試合で、当時研修生の樋口勝信と4アンダーで並び、プレーオフへと突入[7]。1番377ヤード、パー4のホールでは3Wでナイスショットし、2打目には5mにオン[7]。近藤と樋口は共にいいパットがカップをかすめパーに終わり、2ホール目は4番558ヤードパー5のホールで12mにオンするが、近藤は外して2位に終わった[7]。たった2ホールであったが、樋口はツアーでの優勝の実績があるプロとラウンドするのは初めてのことで、緊迫したプレーオフで近藤の迫力と凄まじい気合を目の当たりにし、近藤はその後会った時には「俺の天敵だ!」といつも言っていた[7]

1998年の宇部興産オープン[8]を最後にレギュラーツアーから引退し、シニアに転向した1999年には日本シニアオープン天野勝井上久雄と並んでの5位タイ[9]2000年には1日大会のN.CUPシニアオープンで青木の2位[10]2001年にはオールドマンパーシニアで冨田三十士と並んでの8位タイ[11]に入る。

2010年日本プロシニアを最後にシニアツアーから引退し、現在は平岡牧場サンバレーや勝浦東急ゴルフコースでレッスンを担当[1]

主な優勝

[編集]
  • 1987年 - 茨城オープン
  • 1988年 - ペプシ宇部

脚注

[編集]
  1. ^ a b c 近藤 守 コンドウ マモル MAMORU KONDO
  2. ^ a b c d 朝日新聞縮刷版p927 昭和63年5月23日朝刊19面「プロ14年目の近藤 ツアー初優勝 ペプシ宇部
  3. ^ ハワイパールオープン
  4. ^ 朝日新聞縮刷版p786 昭和63年5月20日朝刊22面「杉田がトップ尾崎将出遅れ ペプシ宇部初日
  5. ^ 朝日新聞縮刷版p894 昭和63年5月22日朝刊26面「陳と近藤、トップに ペプシ宇部
  6. ^ History 宇部72㏄の歴史
  7. ^ a b c d 私がラウンドしたプロゴルファー 近藤守プロ
  8. ^ 近藤 守選手 年度別大会成績 - 日本ゴルフツアー機構 - The Official Site
  9. ^ 1999日本シニアオープンゴルフ選手権競技
  10. ^ N.CUPシニアオープンゴルフトーナメント
  11. ^ オールドマンパーシニア

外部リンク

[編集]