輜重兵第122連隊
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輜重兵第122連隊 | |
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創設 | 1945年(昭和20年)1月16日 |
廃止 | 1945年(昭和20年) |
所属政体 | 大日本帝国 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
部隊編制単位 | 連隊 |
兵種/任務 | 輜重兵 |
所在地 | 牡丹江-鏡泊湖南部 |
編成地 | 牡丹江[1] |
通称号/略称 | 舞鶴12068[2] |
補充担任 | 東京師管区[2] |
最終上級単位 | 第122師団 |
最終位置 | 鏡泊湖南部[3] |
戦歴 | 太平洋戦争 |
輜重兵第122連隊(しちょうへいだい122れんたい、輜重兵第百二十二聯隊)は、大日本帝国陸軍の連隊の一つ。
沿革
[編集]太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)1月16日に牡丹江で軍令陸甲第9号下令[1]により、満州防備強化を目的に新設された第122師団の輜重兵連隊として編成された。3月30日、沖縄に転用した輜重兵第9連隊の残置者などを基幹として[1]、輓馬2、自動車3の5個中隊で編成完結した[3]。4月1日、鏡泊湖南部の陣地構築のため、第2中隊および第1中隊の1個小隊は南湖頭に移駐[1]。5月までに本部は東京城に置かれ、第3、4、5中隊は北湖頭に移駐し、残留隊は牡丹江に残った[1]。
5月中旬から下旬にかけて現地応召により約200名を編入[1]。同月、第2中隊の1個小隊の約50名は敦化に派遣され、7月25日には一部が寧安県大溝に移駐し陣地構築に当たった[1]。8月4日、残留隊は牡丹江から興隆に移駐[1]。同9日、ソ連対日参戦と共に残留隊は興隆を出発し東京城の本部と合流後、陣地間の資材および兵糧の輸送に当たった[1]。
歴代連隊長
[編集]代 | 氏名 | 在任期間 | 出身校・期 | 備考 |
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1 | 田中剛一[4] | 1945.2.12[4] - 終戦[3] | 陸士48期[4][5] | 少佐[4] |
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i 「陸軍北方部隊略歴(その1) 第1方面軍/分割1」 アジア歴史資料センター Ref.C12122425900 、昭和38年3月2日。
- ^ a b 「26.122D 第122師団」 アジア歴史資料センター Ref.C15011245100
- ^ a b c 新人物往来社 1991, 192頁.
- ^ a b c d 外山、森松 1987, 1213頁.
- ^ 山崎 1990, 243頁.
参考文献
[編集]- 外山操、森松俊夫 編著『帝国陸軍編制総覧』芙蓉書房出版、1987年。
- 山崎正男 編『陸軍士官学校:保存版』(第8)秋元書房、1990年。
- 『日本陸軍機械化部隊総覧』新人物往来社〈別冊歴史読本 特別増刊第41号 戦記シリーズ〉、1991年。