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車ドゥリ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
車杜里から転送)
車 ドゥリ
名前
愛称 ラジオ[1]
カタカナ チャ・ドゥリ
ラテン文字 Cha Du-Ri
ハングル 차두리
基本情報
国籍 大韓民国の旗 大韓民国
生年月日 (1980-07-25) 1980年7月25日(44歳)
出身地 西ドイツの旗 西ドイツヘッセン州
フランクフルト・アム・マイン
身長 181cm
体重 79kg
選手情報
ポジション DF (RSB) / MF / FW
利き足 右足
ユース
大韓民国の旗 高麗大学校
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
2002-2004 ドイツの旗 レヴァークーゼン 0 (0)
2002-2003 ドイツの旗 ビーレフェルト (loan) 22 (1)
2003-2004 ドイツの旗 フランクフルト (loan) 31 (1)
2004-2006 ドイツの旗 フランクフルト 56 (11)
2006-2007 ドイツの旗 マインツ 12 (0)
2007-2009 ドイツの旗 コブレンツ 61 (3)
2009-2010 ドイツの旗 フライブルク 23 (1)
2010-2012 スコットランドの旗 セルティック 31 (2)
2012-2013 ドイツの旗 デュッセルドルフ 10 (0)
2013-2015 大韓民国の旗 FCソウル 58 (0)
代表歴2
2001-2015 大韓民国の旗 韓国 76 (4)
監督歴
2025- 大韓民国の旗 華城FC
1. 国内リーグ戦に限る。2014年11月30日現在。
2. 2015年1月31日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

チャ・ドゥリ (チャ・ドゥリ, 차두리, 1980年7月25日 - ) は、韓国の元サッカー選手、現サッカー指導者。元韓国代表。現役時代のポジションはディフェンダーミッドフィールダーフォワード

来歴

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生い立ち

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韓国サッカー史上最高の選手とも言われる車範根(チャ・ボングン)の実子。父・範根がブンデスリーガのアイントラハト・フランクフルトでプレーしていた1980年にドイツのフランクフルト・アム・マインで生まれた。のちに父が現役を退いた1989年までドイツで過ごす。

クラブ

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2002 FIFAワールドカップ終了後、アルミニア・ビーレフェルトとプロ選手契約。1年間プレーした後、2003年に生まれ故郷でありかつて父が所属していたアイントラハト・フランクフルトに移籍した。また2005年2月中田英寿ジネディーヌ・ジダンらが参加して行われた『スマトラ沖地震被災者支援チャリティーマッチ』では、親善試合ながら強烈なミドルシュートも決めている。2006-07シーズンは1.FSVマインツ05でプレーしていたが出場機会に恵まれず2007年6月に2部リーグのTuSコブレンツに移籍。2009-2010シーズンからは、1部に昇格したばかりのSCフライブルクに移籍。

2010年7月、英国の労働ビザ取得を前提としてセルティックFCと2年契約(1年の延長オプション付き)を結んだ[2]

2012年6月、ブンデスリーガ1部に昇格したフォルトゥナ・デュッセルドルフに完全移籍しドイツに復帰した。

2013年2月、フォルトゥナ・デュッセルドルフとの契約を解除した[3]。同年3月25日、KリーグFCソウルと契約し、初めて韓国のプロクラブでプレーしている。

2015年シーズンをもって現役を引退した。

代表

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高麗大学校に在籍していた2001年韓国代表チームとの練習試合に出場した際、当時の代表監督フース・ヒディンクに見出され、程なくして2002 FIFAワールドカップに臨む韓国代表メンバーにアマチュア選手ながら選出された。本大会ではレギュラーメンバーではなかったものの、主にウイングのポジションで計4試合に出場し、韓国チームの大会ベスト4進出という快挙を経験した。

2009年10月14日のセネガル戦では、3年ぶりとなる代表復帰を果たし、2010 FIFAワールドカップにも出場した。AFCアジアカップ2011ウズベキスタンとの3位決定戦では欠場したパク・チソンに代わり、初めてキャプテンを務めた。

2014年12月2日、AFCアジアカップ2015を最後に代表から引退することを表明した[4]

指導者

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選手引退後は韓国代表コーチやFCソウルU-18チームである五山高等学校サッカー部監督を務め、ユルゲン・クリンスマンが監督を務めていた時期の韓国代表では参謀としてクリンスマンとドイツ語で意思疎通を図る役割を担っていたとされる。

2024年11月22日、Kリーグ2に新規参入する華城FC監督に任命された。ただし、この時点でKリーグクラブで指揮を執るために必要となるKFA P級ライセンス未取得である[5]

人物

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名の「ドゥリ」とは朝鮮語で「2つ/2番目」という意味であり、生まれた順番によってつけられたものであるが(姉はハナ:1つ、弟はセチ:3つ)、韓国では本来は使われない珍しい名前である。また固有語なので漢字表記もない。

ドイツ生まれだが、ドイツも韓国も法律的に血縁による国籍の取得だけを認めているため、ドイツ国籍は持っていない。2008年に1歳年上の韓国人女性と結婚した。2010年2月に娘が生まれた。

エピソード

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  • フランクフルト時代、自軍のチャンスを潰すことから“チャンスキラー”と呼ばれており、入れ替わるように加入した高原直泰も結果を出すまで“第2のチャンスキラー”という懐疑的な目で見られていた。[6]
  • 口数が多いことから“ラジオ”という愛称がある[1]
  • AFCアジアカップ2011準決勝、日本対韓国にて、キ・ソンヨンが得点の際に猿の物真似をするという人種差別的パフォーマンスをして問題とされた後には、スコットランド人がキ・ソンヨンに対し猿のマネで差別的行動をしたためであると報告し、その件について、車ドゥリはスコットランド人がキ・ソンヨンに対して猿のマネをして差別的な行動を取ったと話した[7]。しかし、スコットランドでは、セルティックFCの相手チームのファンが取った行動は猿ではなく、韓国で伝統的に食される犬の鳴き声をマネたものであると報道された[8]

所属クラブ

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個人成績

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国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
ドイツ リーグ戦 リーグ杯DFBポカール 期間通算
2002-03 ビーレフェルト 7 ブンデス1部 21 1 - 2 0 23 1
2003-04 フランクフルト 11 31 1 - 2 0 33 1
2004-05 ブンデス2部 29 8 - 3 1 32 9
2005-06 ブンデス1部 27 3 - 3 0 30 3
2006-07 マインツ 2 12 0 - 1 0 13 0
2007-08 コブレンツ 22 ブンデス2部 28 1 - 0 0 28 1
2008-09 33 2 - 1 0 34 2
2009-10 フライブルク 6 ブンデス1部 23 1 - 2 0 25 1
スコットランド リーグ戦 S・リーグ杯スコティッシュ杯 期間通算
2010-11 セルティック 11 SPL 17 1 1 0 1 0 19 1
2011-12 14 1 1 0 2 0 17 1
ドイツ リーグ戦 リーグ杯DFBポカール 期間通算
2012-13 デュッセルドルフ 22 ブンデス1部 10 0 - 1 0 11 0
韓国 リーグ戦 リーグ杯FA杯 期間通算
2013 FCソウル 5 Kリーグ 30 0 - 0 0 30 0
2014 28 0 - 4 0 32 0
2015 24 2 - 3 0 27 2
通算 ドイツ ブンデス1部 125 6 - 11 0 136 6
ドイツ ブンデス2部 90 11 - 4 1 94 12
スコットランド SPL 31 2 1 0 3 0 35 2
韓国 Kリーグ 82 2 - 7 0 89 2
総通算 328 21 3 0 24 1 354 22

脚注

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外部リンク

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