趙茂
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趙 茂(ちょう も、1099年9月1日 - 11月17日)は、北宋の哲宗の息子。賢妃劉氏(昭懐皇后)の息子で、純美帝姫の同母弟である。
生涯
[編集]元符2年8月8日(1099年9月1日)未時に生まれ、夜間に官員たちが集合して祝賀した。9月、劉氏は皇后に昇進した。
生まれながらにして病弱で、医術の甲斐もなく、同年閏9月26日(11月17日)未時に夭折した。趙茂と名付けられ、越王の位号を追贈され、「沖献」と諡されて、奉先資福禅院に葬られた。3日後、姉の純美帝姫も病没した。父の哲宗は悲嘆のあまり10日間絶食して、自身も健康を害し、3カ月後の元符3年(1100年)1月に崩じた。
哲宗の崩御後まもなく、元祐皇后(哲宗の廃后)が皇宮に召還され、殺害された卓氏[1]が趙茂の実母であったと噂された。同年5月、劉皇后は激怒して上奏文で自身の潔白を公表し、公開審判を請求した。崇寧元年(1101年)、徽宗により劉皇后の名誉が回復され、趙茂は皇太子の位を追贈されて「献愍」と改諡され、哲宗の永泰陵に従葬された。
伝記資料
[編集]- 『皇宋十朝綱要』
- 『曾公遺録』
- 『宋会要輯稿』
脚注
[編集]- ^ 「卓氏」については記録が全くない。早世した側女の可能性はあるが、架空の人物の可能性もある。