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趙植

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

趙 植(ちょう しょく、1108年 - ?)は、北宋徽宗の第12皇子(夭逝を除いて第10皇子)。

経歴

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婉容王氏(後に懿粛貴妃となった)の長男として大観2年(1108年)6月に生まれた。同母姉に恵淑帝姫康淑帝姫、同母妹に柔福帝姫賢福帝姫がいる。

同年9月、呉国公の位を授けられた。政和3年(1113年)正月、太保の官職を授けられた。宣和4年(1122年)2月12日、信都郡王を再授された。同年12月、莘王を加授された。

靖康の変後、に連行され、五国城に定住した。以後の動静は不明であるが、『三朝北盟会編』(1162年完成)によると、同書の頃まで金で健在であったという。

家族

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  • 正室:厳善 - 金で洗衣院に入れられ、金の天会13年(1135年)に釈放された。
  • 側室:褚紅雲 - 金で完顔宗憲の側室となった。
  • 男子:一郎、胡郎
  • 2人の女子

いずれも金に連行された。

  • 男子:趙成定 - 金で天会8年(1132年)に生まれた。

伝記資料

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  • 『靖康稗史箋證』
  • 『宋会要輯稿』
  • 『三朝北盟会編』
  • 『皇子植特授依前検校、太保、安遠軍節度使、開府儀同三司、進封信都郡王加食邑食実封制』宣和四年二月十二日冠礼