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趙嬰

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

趙 嬰(ちょう えい、生没年不詳)は、春秋の人物。趙嬰斉とも。楼の地を封地として与えられ、それを氏としたことから、楼嬰とも称される。

生涯

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趙衰の子として生まれる。母は趙姫(晋の文公の娘)[1]

紀元前597年荘王率いる軍がを包囲し、鄭の襄公は晋に助けを求めた。趙嬰も中軍大夫として鄭への援軍に赴いた。邲の戦いで晋軍が楚軍に大敗を喫すると、趙嬰は前もって部下に黄河を渡る船を用意させていたため、敗戦後すぐに渡河することができた[2]

紀元前587年、甥の趙朔の妻であった趙荘姫中国語版成公の娘)と私通した[3]ため、翌紀元前586年に同母兄の趙同趙括によってに放逐された。

紀元前583年、趙嬰が放逐されたことを恨んでいた趙荘姫は、趙同と趙括が謀反を企んでいると兄の景公に讒言し、趙同と趙括は殺害されて晋の趙氏は一度滅んだ(下宮の乱中国語版)。『史記』によると趙嬰もこの時に屠岸賈中国語版によって殺害されたとする[4][5]が、楊秋梅『趙氏孤児本事考』と郝良真・孫継民『趙氏孤児考弁』では『史記』の記述は虚構が多く、事実ではないとしている。

出典

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  1. ^ ウィキソース出典 (中国語)『『春秋左氏伝』僖公』。ウィキソースより閲覧。 
  2. ^ ウィキソース出典 (中国語)『『春秋左氏伝』宣公』。ウィキソースより閲覧。 
  3. ^ ウィキソース出典 (中国語)『『春秋左氏伝』成公』。ウィキソースより閲覧。 
  4. ^ ウィキソース出典 (中国語)『『史記』巻四十三 趙世家 第十三』。ウィキソースより閲覧。 
  5. ^ 御橋 1981, p. 327

参考書籍

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  • 御橋悳言『平治物語注解』八木書店〈御橋悳言著作集2〉、1981年。ISBN 978-4797105346