越智二良
表示
越智 二良(おち じろう、1891年1月26日 - 1991年4月18日[1])は愛媛県松山市出身の随筆家、評論家、郷土史家である。俳号は水草。柳号は緋威子、やなぎ丸。
人物
[編集]小学校では藤野古白の弟である藤野滋と同級生であった[2]。投書雑誌『文章世界』に「越智水草」「落二郎」という筆名で投稿していた[2](「サフラン酒」は『文章世界』の優秀作を厳選した田山花袋編『二十二篇』東雲堂1910年にも収録された)。1909年5月に創刊された雑誌『四国文学』では2巻5号まで編集者を務めた[3][4]。愛媛県立松山商業学校(現・愛媛県立松山商業高等学校)を卒業後、海南新聞社(現在の愛媛新聞社)に入社。1913年5月に同紙一面に文芸欄が新設された際、担当者に就く[5]。同年7月、越智水草『小品 草愁』(清平調社)刊行(序文は服部嘉香)。1918年、朝日新聞社に入社。大阪本社学芸部長を最後に1943年退社。その後は、松山市文化財委員、県史編纂委員会、伊予史談会委員、松山子規会会長(三代目)、愛媛県立図書館館長[6]等を務めた。愛媛県教育文化賞、勲五等双光旭日章、愛媛新聞社賞、愛媛放送賞などを受賞した[1]。
1991年4月18日、急性肺炎のため死去[1][7]。100歳没。
著書
[編集]- 『小品 草愁』(1913年、清平調社)
- 『子規歳時』(1956年、朝日新聞松山支局)
- 『愛媛の先覚者 1 井上正夫』(1965年、愛媛県教育委員会) ※「序」「エピローグ」から越智が執筆したことが分かる。
- 『柳原極堂書翰集』(1967年、極堂会)[8]
- 『愛媛の句碑歌碑』(1972年、伊予史談会)
- 『子規と松山』(1972年、愛媛文化双書刊行会) ※解説を担当。
- 『虚子のふるさと』(1973年、愛媛文化双書刊行会) ※解説を担当。
- 『たれゆえ草』(1977年、松山子規会)
- 『しのぶ草』(1977年、松山子規会)
- 『子規歳時 新訂版』(1981年、松山子規会)
- 『子規こそわがいのち 』(1991年、松山子規会)
- 『『草愁』など』(1992年、松山子規会)
脚注
[編集]- ^ a b c 『現代物故者事典1991~1993』(日外アソシエーツ、1994年)p.155
- ^ a b 木村毅「投書人生歴程記(二十九)」『学苑』476号(光葉会、1979年) p.3-4
- ^ 『愛媛県史 文学』(愛媛県、1984年) p.499-500,700
- ^ 木村毅『早稲田外史』(講談社、1964年) p.207
- ^ 『愛媛新聞八十年史』(愛媛新聞社、1956年) p.333
- ^ 伊予風土紀執筆者一覧
- ^ 「越智二良さん死去」『伊予史談』283号(伊予史談会、1991年) p.42-43
- ^ 『愛媛県史 文学 資料編』(愛媛県、1982年)
外部リンク
[編集]- 吟行ナビえひめ(越智二良)
- 『愛媛県史 文学』(愛媛県、1984年) ※言及箇所多数。
- 『愛媛県史 文学 資料編』(愛媛県、1982年) ※p.907に略歴。