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赤崎貞幹

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

赤崎 貞幹(あかざき ていかん、元文4年(1739年) - 享和2年8月29日1802年9月25日))は江戸時代薩摩藩武士漢学者は貞幹[1]通称は源助。は彦礼。は海門[1]。生年は寛保2年(1742年)、没年は文化2年(1805年)ともされる[2]。なお、諱は「ていかん」と音読みで読まれる。

生涯

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薩摩国谿山郡谷山郷の南出身(現在の鹿児島県鹿児島市谷山中央四丁目[3][1]。谷山郷士であったが、山本伝蔵と同じく山田喜右衛門有雄(君豹)に師事する。のち肥後国で藪弧山に師事して帰藩すると、鹿児島城下士となる。西田の片馬場(現在の鹿児島市常盤町)に居住していた[1]。山本伝蔵の後に造士館教授御用人格となるが、江戸で64歳で死去したため、再び山本が造士館教授となる。菩提寺は泉谷山大円寺[1]法号は層巌院海門嘯月居士。なお、「薩陽過去帳」では享和2年(1802年)8月29日死亡としている。

教授の他に助教、島津斉宣の侍読、記録奉行、物頭、江戸幕府の神田聖堂弐日講釈を勤め、定府となる。著書に「琉客譚記」などがある。また、芝山持豊より和歌を学ぶという。大正13年(1924年)、従五位を追贈された[4]

年譜

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  • 天明3年(1783年):助教及び島津斉宣侍読となる。
  • 天明6年(1786年):聖堂奉行が教授に改称される。
  • 天明8年(1788年):助教から記録奉行に役替え。また引き続き侍読を勤める。
  • 寛政5年(1793年):物頭に就任。
  • 寛政7年(1795年):教授に就任。

脚注

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  1. ^ a b c d e 谷山市誌編纂委員会 1967, p. 1166.
  2. ^ 死亡年月日について、「称名墓志」によると南林寺にあった墓石には文化2年8月30日に死去としている。
  3. ^ 赤崎海門誕生地”. 鹿児島市. 2021年11月26日閲覧。
  4. ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.54

参考文献

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