赤坂義昭
基本情報 | |
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本名 | 赤坂 義昭 |
階級 | ミドル級 |
国籍 | 日本 |
誕生日 | 1943年6月29日 |
出身地 | 秋田県六郷町(現在の美郷町) |
死没日 | 2009年12月28日(66歳没) |
スタイル | オーソドックス |
プロボクシング戦績 | |
総試合数 | 43 |
勝ち | 22 |
KO勝ち | 10 |
敗け | 22 |
引き分け | 1 |
赤坂 義昭(あかさか よしあき、1943年6月29日 - 2009年12月28日)は、秋田県六郷町(現在の美郷町)出身で、宮城野部屋所属の元大相撲力士、暁ジム(田中敏朗会長)→帝拳ジム所属の元プロボクサー、第16代・第18代日本ミドル級王者。元協栄札幌赤坂ジム会長。大相撲時代の四股名は郷の山(さとのやま)。
来歴
[編集]中学校卒業後に力士を志して大相撲の宮城野部屋に入門し、1959年5月場所に本名の赤坂の四股名で初土俵を踏んだ。同年11月場所から四股名を郷の山に改名して三段目まで出世したが、1962年9月場所限りに廃業した。最高位は三段目93枚目。
来歴
[編集]プロボクシングに転向して、1963年にプロデビュー[1]。左右パンチともに威力を秘め、1966年3月20日、日本ミドル級王者の海津文雄と対戦し、判定負け[1]。
1967年5月3日、海津文雄とのリマッチで判定勝ちを収め王座を獲得した[1]。
1967年7月19日、海津とのラバーマッチに判定負けを喫し初防衛に失敗、王座から陥落した[1]。
1967年11月8日、武田昭峰と日本ミドル級王座決定戦を行い、3回KO勝ちを収め王座に返り咲いた[1]。
1968年5月6日、藤一に敗れて初防衛に失敗、王座から陥落した[1]。
1968年6月7日、ローマでWBA・WBC世界ミドル級王者ニノ・ベンベヌチと対戦し、2回KO負け[1]。
その後、日本王座返り咲きを狙って江藤義昭、カシアス内藤と対戦するも、いずれも失敗に終わった[1]。
引退後は札幌に移り、協栄札幌赤坂ジムを設立[1]。慢性腎不全のため、ジムの経営は長女でマネージャーも務める裕美子及び畠山昌人に譲って療養に専念していたが、慢性腎不全が悪化して2009年12月28日に死去した[2]。
主な成績
[編集]大相撲時代
[編集]- 通算成績:65勝73敗8休(21場所)
プロボクシング時代
[編集]- 通算成績:43戦22勝(10KO)20敗1分け
獲得タイトル
[編集]- 第16代日本ミドル級王座(防衛0)
- 第18代日本ミドル級王座(防衛0)
脚注
[編集]関連項目
[編集]外部リンク
[編集]前王者 海津文雄 |
第16代日本ミドル級王者 1967年5月3日 - 1967年7月19日 |
次王者 海津文雄 |
空位 前タイトル保持者 海津文雄 |
第18代日本フェザー級王者 1968年5月6日 - 1968年9月19日 |
次王者 藤一 |