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賈居貞

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

賈 居貞(か きょてい、1218年 - 1280年)は、モンゴル帝国大元ウルス)に仕えた漢人の一人。字は仲明。真定府獲鹿県の出身。

概要

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賈居貞は15歳の時に金朝の首都であった開封が陥落した(開封攻囲戦)ため、母とともに東平に移住し行台に仕えた。この頃、モンゴル支配下の華北では法制が未整備であったため、人々は賄賂をやり取りするのが常態であったが、賈居貞は金50両の賄賂を断ったことで清廉な人物として知られたという。モンゴル帝国第2代皇帝オゴデイはこの話を聞いて賈居貞に白金100両を下賜し、また皇族の一人であったクビライが賈居貞を召し抱えた[1]

第4代皇帝モンケの急死によってクビライが即位すると、賈居貞は中書左右司郎中の地位を授けられた。この時、クビライの弟のアリクブケカラコルムにて即位を宣言して両者の間に内戦が勃発した(帝位継承戦争)ため、賈居貞はクビライのモンゴル高原遠征に従軍した。遠征中に賈居貞は史天沢とともにクビライに『資治通鑑』を講釈し、軍中にあっても書物を持たないことはなかったという[2]。ある日、クビライが賈居貞の俸給を尋ねたところ少なかったため、クビライはこれを増やそうとしたが、賈居貞は辞退したとされる。その後、劉秉忠が上奏して賈居貞を参知政事としようとしたが、やはり賈居貞は辞退したという[3]

1264年至元元年)には参議中書省事に任命され、左丞の姚枢とともに河東山西に赴任した。1268年(至元5年)には中書郎中となったが、この頃権勢を極めていたアフマド・ファナーカティーと対立し、給事中となって史天沢とともに国史の編纂に携わった[4]

1274年(至元11年)にバヤンを総司令とする南宋領への侵攻が始まると、賈居貞も宣撫使として江南方面に派遣された。まず長江中流域を抑えたバヤンはエリク・カヤを残して首都の臨安に向かって東下したが、この頃賈居貞はモンゴルに投降した流民の統治がなおざりとなって危うい状態にあることを報告している。1275年(至元12年)春にエリク・カヤが江陵を奪取すると、賈居貞は行省として鄂州に残留した。賈居貞は先の報告に基づき、備蓄食料を配ることで流民の生活を安定させ、また戦火によって身動きの取れなくなった商人たちに給引を渡し帰郷を許した。これらの施策によってモンゴル軍の占領地を安定させることに成功している[5]

1276年(至元13年)に首都の臨安が陥落したことで事実上南宋は滅亡したが、左丞相の陳宜中らが王族とともに南方に逃れたことによって各地で抵抗が続いた。蘄州の司空山で盗賊が起こると、鄂州属県の傅高なる人物もこれに呼応して兵を挙げた。これを受けて、賈居貞は説得と官軍による威圧を組み合わせてこれを平定した[6]

1277年(至元14年)には湖北宣慰使の地位を授けられたが、賈居貞の任命後モンゴルの将による横暴な振る舞いがやんだため、土地の民は賈居貞の像を作って祀るほど感謝したという[7]。また、1278年(至元15年)には江西行省参知政事に移ったが、赴任の際に賈居貞の名声を知っていた民は争ってこれを迎えたされる[8]

1280年(至元17年)に日本再遠征論(弘安の役)が朝廷で起こると、いたずらに民を苦しめ乱を招くものであるとして上奏せんとしたが、朝廷に出仕する前に63歳にして亡くなった[9]。息子に賈鈞中国語版がおり、大元ウルスに仕えて参知政事に至っている。

脚注

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  1. ^ 『元史』巻153列伝40賈居貞伝,「賈居貞字仲明、真定獲鹿人。年十五、汴京破、奉母居東平。甫冠、為行台従事。時法制未立、人以賄賂相交結。有餽黄金五十両者、居貞却之。太宗聞而嘉歎、勅有司月給白金百両、以旌其廉。世祖在潜邸、知其賢、召用之、俾監築上都城。訖事、以母喪帰」
  2. ^ 宮2018,638頁
  3. ^ 『元史』巻153列伝40賈居貞伝,「世祖即位、中統元年、授中書左右司郎中。従帝北征、毎陳説資治通鑑、雖在軍中、未嘗廃書。一日、帝問『郎俸幾何』。居貞以数対。帝謂其太薄、勅増之、居貞辞曰『品秩宜然、不可以臣而紊制』。劉秉忠奏居貞為参知政事、又辞曰『他日必有由郎官援例求執政者、将何以処之』。不拝」
  4. ^ 『元史』巻153列伝40賈居貞伝,「至元元年、参議中書省事、詔与左丞姚枢行省河東山西、罷侯置守。五年、再為中書郎中、時阿合馬擅権、忌之、改給事中。同丞相史天沢等纂修国史」
  5. ^ 『元史』巻153列伝40賈居貞伝,「十一年、丞相伯顔伐宋、居貞以宣撫使議行省事。既渡江、下鄂・漢、伯顔以大軍東下、留右丞阿里海涯与居貞分省鎮之。居貞曰『江陵要地、乃宋制閫重兵所屯。聞諸将不睦、遷徙之民盈城、復皆疾疫、芻薪乏闕、杜門不敢樵採。不乗隙先取之、迨春水漲、恐上流為彼所乗、則鄂危矣』。駅聞。十二年春、命阿里海涯領兵取江陵、居貞以僉行省事留鄂。於是発倉廩以賑流亡、宋宗室子孫流寓者、廩食之、不変其服、而行其楮幣。東南未下州郡、商旅留滞者、給引以帰之。免括商税并湖荻禁。造舟百数艘、駕以水軍、不致病民。一方安之。婁安邦以信陽来帰、遣入覲、裨将陳思聡屠其家。居貞以計召至、数思聡罪而誅之」
  6. ^ 『元史』巻153列伝40賈居貞伝,「宋幼主既降、其相陳宜中等挾二王逃閩・広、所在扇惑、民争応之。蘄州寇起司空山、鄂属県民傅高亦起兵応。居貞移檄諭以禍福、其下往往渙散、圧以官軍、遂削平之。高変姓名逃逸、獲而戮之。初、遣鄭万戸討賊、鄭言『鄂之大姓、皆与傅高通、請先除之、以絶禍本』。居貞曰『高鼠子無知、行就戮矣、大姓何預。吾能保其無他』。鄭既領兵出、留其所善部将、戒曰『聞吾還軍、汝即挙烽城楼、内外合発、当尽殺城中大姓』。会其人戦敗溺死、其事始彰」
  7. ^ 『元史』巻153列伝40賈居貞伝,「十四年、拝湖北宣慰使、命未下、居貞閉門不出、而驕将悍卒、合謀擾民、乃復出視事、人恃以無恐。及行、鄂之老幼号送于道、刻其像于石、祠之泮宮」
  8. ^ 『元史』巻153列伝40賈居貞伝,「十五年、遷江西行省参知政事、未至、民争千里迎訴。時逮捕民間受宋二王文帖者甚急、坐繋巨室三百餘、居貞至、悉出之、投其文帖于水火。士卒有挾兵入民家、誣為蔵匿以取財者、取人子女為奴妾者、皆痛縄以法。大水壊民廬、居貞発廩賑之。南安李梓発作乱、居貞慮将帥出兵擾民、請親往、卒纔千人、営于城北、遣人諭之。賊衆聞居貞至、皆散匿、不復為用。梓発閉妻子一室、自焚死。比還、不戮一人。杜万一乱都昌、居貞調兵擒之、有列巨室姓名百数来上、云与賊連、居貞曰『元悪誅矣、蔓延何為』。命火其牒」
  9. ^ 『元史』巻153列伝40賈居貞伝,「十七年、朝廷再征日本、造戦艦于江南、居貞極言民困、如此必致乱、将入朝奏罷其事、未行、以疾卒于位、年六十三。贈推忠輔義功臣・銀青栄禄大夫・中書平章政事、追封定国公。仲子鈞」

参考文献

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  • 宮紀子『モンゴル時代の「知」の東西』名古屋大学出版会、2018年
  • 元史』巻153列伝40賈居貞伝
  • 新元史』巻巻167列伝64賈居貞伝