豆莫婁
豆莫婁(呉音:づまくる、漢音:とうばくろう、拼音:Dòumòlóu)は、6世紀から8世紀にかけて中国東北部の嫩江流域に存在した民族。北夫余の末裔であるが、モンゴル系の言語を話す[1]。大莫盧[2]・達末婁[3]とも表記される。
歴史
[編集]北夫余が高句麗によって滅ぼされると、その生き残りは那河もしくは他漏河を渡ってそこに住み、豆莫婁となった。
唐代になると豆莫婁は達末婁と呼ばれ、開元11年(723年)に達末婁は達姤[4]とともに唐に朝貢した。
言語系統
[編集]『魏書』『北史』に「旧北扶余である」と記されているため、扶余諸語に思われるが[5]、『魏書』『北史』の失韋国の条に「語は庫莫奚・契丹・豆莫婁国と同じ」とあることから[6]、モンゴル系とも考えられる。いずれにしても、定説はなく、今後の研究を待たねばならない。
地理
[編集]史書によると、勿吉国から北へ千里、洛陽から6千里の距離に在り、西には室韋がいて東は海(日本海)に行きつく、東西2千里の範囲に暮らしている。「東夷において最も平坦な地」とある。五穀を栽培するのに適しているが、五果(桃・李・杏・棗・栗)には適さないという。
習俗
[編集]豆莫婁の人々は背が高く、性格は強勇謹厚で略奪を行わない。君長は六畜(馬・牛・羊・犬・豕・鶏)の名をもって官名とし、邑落には豪帥がいる。飲食のときは勿吉とは違って[7]俎豆(そとう)[8]を用いる。麻布があり、衣製は高句麗の類で帽子が大きい。大人は金銀の装飾品を身につける。
刑罰
[編集]刑法は夫余時代のままで、刑は厳しく、殺人者は死刑となり、その家人を奴婢とする。淫らで妬ましい者は殺してその屍を国の南山上に置いて腐らせる。遺族がこの遺体を取り返したかったら、牛馬と交換で遺体を取り戻すことができる。
脚注
[編集]- ^ 『魏書』列伝第八十八、『北史』列伝第八十二「語は庫莫奚・契丹・豆莫婁国と同じ」より
- ^ 『魏書』列伝第八十八、『北史』列伝第八十二の勿吉国の条
- ^ 『新唐書』列伝第一百四十五
- ^ 室韋の一種
- ^
- 井上秀雄、他訳注『東アジア民族史1-正史東夷伝』(1974年、平凡社)p103「(高句麗・夫余の)両族は、ともにツングース系と考えられている。両族が同系であることは始祖神話(東明・朱蒙伝説)の類同によっても推測できよう。」
- 『世界史小辞典』(2004年、山川出版社)「【夫余】トゥングース系の貊人が建てた。」
- 『Yahoo!百科事典』「【夫余】古代中国の東北地方に割拠していたツングース系と思われる民族が建てた国名《村山正雄》。」
- ^ 『契丹小字研究』「契丹語はモンゴル語族に属するか或はモンゴル語と非常に近しい。」
- ^ 勿吉の前身である挹婁(ゆうろう)は俎豆(食器)を用いなかった。
- ^ 祭器の名。俎と豆。俎はいけにえの肉をのせるまないた、豆は菜を盛るたかつき。転じて、礼法。