谷次亨
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谷次亨 | |
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『満洲国現勢 康徳六年版』 | |
プロフィール | |
出生: | 1898年2月9日 |
死去: |
1977年1月8日 中華人民共和国吉林省長春市 |
出身地: | 清盛京将軍管轄区奉天府復州 |
職業: | 政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 谷次亨 |
簡体字: | 谷次亨 |
拼音: | Gǔ Cìhēng |
ラテン字: | Ku Tz'u-heng |
和名表記: | こく じきょう |
発音転記: | グー ツーホン |
谷 次亨(こく じきょう)は、中華民国、満州国の政治家。満州国で民生部大臣、交通部大臣などの要職をつとめた。名は嘉年だが、字の次亨で知られる。
事跡
[編集]日本に留学し、東京高等師範学校を卒業。帰国後は満鉄の嘱託となり、さらに奉天省塩運総局長、本渓湖煤鉄公司秘書などを歴任した。
満州国建国後は、国務院人事処調査科長、文教部嘱託、民政部警務司外事兼保安科長、安東省教育庁庁長を歴任している。1937年(康徳4年)、満州国の機構改革とともに、総務庁次長に抜擢された。1940年(康徳7年、昭和15年)10月、大阪で開催された興亜厚生大会に満洲帝国代表として出席。1941年(康徳8年)1月[1]、要人の大規模な世代交代に伴い、民生部大臣となる。1942年(康徳9年)9月、交通部大臣に異動した。谷次亨は日本語に精通しており、また、関東軍からの信任も厚かった。谷は関東軍の司令部をしばしば訪問し、中国人の思想動向を報告していたとされる。
満州国が滅亡すると、谷次亨はソ連軍に逮捕され、シベリアに連行・収監された。1950年8月、中華人民共和国に引き渡され撫順戦犯管理所に収監される。後に特赦を受け、長春市図書館で勤務した。
1977年、長春で病没。享年80。
注
[編集]- ^ 劉寿林ほか編『民国職官年表』による。孫棫蔚「偽満州国大臣省長的大連人」は1940年としている。
参考文献
[編集]- 王鴻賓ほか主編『東北人物大辞典 第2巻』遼寧古籍出版社、1996年。ISBN 7805074135。
- 孫棫蔚「偽満州国大臣省長的大連人」『大連文史資料 第7輯』大連市政協文史資料委員会、1990年。
- 山室信一『キメラ-満洲国の肖像 増補版』中央公論新社(中公新書)、2004年。ISBN 4-12-191138-5。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
- 『大連市志 財政志』中央文献出版社、2002年。
満州国
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