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谷新助

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

谷 新助(たに しんすけ、1847年8月25日弘化4年7月15日[1][2]) - 1918年大正7年)8月15日[2][3])は、明治から大正時代の政治家実業家薬種商貴族院多額納税者議員

経歴

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大坂に生まれる[4]。谷卯兵衛の長男として生まれ、1872年(明治5年4月)に分家した[1]。12歳から売薬商・宇野伝七が経営する河内堂に雇われ、1872年(明治5年)独立し伏見町に店を構えた[4]。家業の傍ら大阪司薬場(現国立医薬品食品衛生研究所大阪支所)に通いオランダの薬学者・ドワルスに製薬技術を学び新薬の研究を行った[4]

のち高橋正純の眼に留まり近代的薬剤製錬術を学び、改良工夫を重ねたのち1886年(明治19年)に「健胃固腸丸」と「健胃下腹丸」の2剤を開発[4]。回春堂を設立して新聞広告などで大々的に宣伝し販売した[4]。新薬開発は実母の持病である胃腸虚弱を治す目的から出発した[4]

政界でも活躍し、1890年(明治23年)以降、大阪市東区会議員、同市会議員、同府会議員を務めたほか[3]、1906年(明治39年)には大阪府多額納税者として補欠選挙で貴族院議員に互選され、同年12月13日から[5]1911年(明治44年)9月28日まで在任した[3]

ほか、大阪商業会議所会員、大阪私立衛生会評議員、同監事、大阪府立高等商業学校商議員[3]、阪神曳船会社取締役、第五回内国勧業博覧会期成同盟会、同博覧会各商議員、大阪出品協会協賛員、日本赤十字社、帝国海事協会(現日本海事協会)各特別社員、仁寿生命保険合資会社商議員を歴任した[1]。1876年(明治9年)には大阪薬学校を創立した[2]

脚注

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  1. ^ a b c 人事興信所 1915, た49頁.
  2. ^ a b c 上田ほか 2001, 1190頁.
  3. ^ a b c d 衆議院、参議院 1960, 202頁.
  4. ^ a b c d e f 三善 2000, 701頁.
  5. ^ 貴族院事務局 1947, 16頁.

参考文献

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  • 人事興信所 編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1703995 
  • 貴族院要覧 昭和21年12月増訂 丙』貴族院事務局、1947年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1682480 
  • 衆議院、参議院 編『議会制度七十年史 第1』大蔵省印刷局、1960年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3034963 
  • 三善貞司 編『大阪人物辞典』清文堂出版、2000年。ISBN 4792404991 
  • 上田正昭ほか 監修『講談社日本人名大辞典』講談社、2001年。ISBN 4062108496