コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

谷川一男

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
谷川 一男
生誕 1899年9月11日
日本の旗 日本 福岡県
死没 (1954-01-17) 1954年1月17日(54歳没)
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1921年 - 1945年
最終階級 陸軍少将
テンプレートを表示

谷川 一男(たにがわ[1] / たにかわ[2] かずお、1899年明治32年)9月11日[1][3] - 1954年昭和29年)1月17日[1][3])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将

経歴

[編集]

福岡県出身[1][3][4]。測量業・谷川常吉の息子として生まれる[1]。小倉中学校(現福岡県立小倉高等学校)を経て、1921年(大正10年)7月、陸軍士官学校(33期)を卒業[1][3][4]。同年10月、騎兵少尉に任官し騎兵第5連隊付となる[1][4]。1924年(大正13年)10月、騎兵中尉に昇進し、1926年(大正15年)2月、兵科航空兵に転科し航空兵中尉に任官[1]。1929年(昭和4年)11月、陸軍大学校(41期)を卒業した[1][3][4]

1930年(昭和5年)12月、下志津陸軍飛行学校教官に就任[1]。1931年(昭和6年)12月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員、陸軍省軍務局課員、ソ連ポーランド駐在、参謀本部員を務め、1936年(昭和11年)8月、航空兵少佐に進級[1]。1937年(昭和12年)8月、ソ連大使館武官補佐官に発令され、1938年(昭和13年)3月、航空兵中佐に昇進[1]。1939年(昭和14年)1月、参謀本部員に転じて帰国[1]。1940年(昭和15年)7月から8月まで、仏印タイマレーに出張した[1]。同年12月、陸大教官に就任し、1941年(昭和16年)3月、陸軍大佐に進んだ[1][4]

1941年7月、第23軍司令部付に発令され日中戦争に出征[1][4]。同年9月、大本営幕僚部付となり、同年11月、南方軍参謀連合艦隊参謀に発令され太平洋戦争に出征[1][3][4]。1942年(昭和17年)4月、航空兵団参謀に発令され満州に赴任[1][4]。同年6月、組織改編により第2航空軍参謀に就任[1][4]。1943年(昭和18年)1月、第8方面軍参謀に発令されニューブリテン島ラバウルに赴任[1][3][4]。1945年(昭和20年)2月、大本営付に発令され帰国[1]。同年3月、大本営陸軍部参謀兼連合艦隊参謀副長に就任し、同月、陸軍少将に進み終戦を迎えた[1][3][4]。同年8月、憲兵司令部付となり、同年11月に復員した[1]

1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[5]

伝記

[編集]
  • 谷川敏『追想陸軍少将谷川一男』谷川敏、1991年。

親族

[編集]
  • 長男 谷川敏(陸軍大尉)[1]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x 『日本陸海軍総合事典』第2版、101頁。
  2. ^ 「国立国会図書館典拠データ検索・提供サービス」
  3. ^ a b c d e f g h 『日本陸軍将官辞典』459-460頁。
  4. ^ a b c d e f g h i j k 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』446頁。
  5. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」163頁。

参考文献

[編集]
  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。