谷岡太郎
谷岡 太郎(たにおか たろう、1924年8月17日 - 2007年5月1日)は、日本の学校経営者、学校法人谷岡学園総長、大阪商業大学学長、大阪女子短期大学学長、中京女子大学学長、中京女子短期大学学長などを務めた[1][2]。
経歴
[編集]奈良県生まれ[1]。父は、大阪商業大学創立者の谷岡登。[要出典]
1950年に関西大学法学部を卒業し、大学院法学研究科に進み、1953年に中退[1]。
1967年、大阪商業大学附属高等学校(後の大阪商業大学高等学校)第7代校長に就任し、1969年8月まで在任した[3]。
1970年に学校法人清陵学園の理事長に就任し、1986年まで在任[1][4][5]。
1974年12月、谷岡登の死去に伴い、学校法人谷岡学園理事長、大阪商業大学学長、大阪女子短期大学学長に就任[3]。
1976年、慶熙大学校(大韓民国)から名誉博士号を授与される[1]。
1976年、中京女子大学(至学館大学の前身)などを運営する学校法人内木学園の理事長に就任[4][5]、1979年には実質的に経営を引き受け[6]、法人名を学校法人中京女子大学と改め[7]、理事長[1]、第3代学長に就任した[8]。中京女子大学については、娘の谷岡郁子が後に、学長、理事長を継承した[6]。
1989年、谷岡学園によって神戸芸術工科大学が設立され[9]、以降、谷岡太郎は神戸芸術工科大学創設者とも称されるようになった。
1991年、グアダラハラ自治大学(メキシコ)から名誉博士号を授与される[1]。
2006年には、1997年から2005年にかけて3回に分けて支払われた学園理事長職の退職金、合計13億円の一部が、より税率の高い賞与に相当すると大阪国税局に認定され、学園を通しておよそ1億円を追加納付した[11]。
2007年5月1日に死去した際には[3]、学校法人谷岡学園、学校法人中京女子大学、学校法人清陵学園の合同葬が、大阪商業大学で行なわれた[2][12]。
家族
[編集]大阪商業大学長の谷岡一郎は長男、至学館大学学長で元参議院議員の谷岡郁子は娘[2]。
おもな著書
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k “谷岡太郎理事長から谷岡一郎理事長へ〜谷岡太郎理事長ご勇退 次年度からは総長・理事として〜” (PDF). 楽人 (谷岡学園) (20): p. 10. (2005年3月29日) 2016年8月26日閲覧。
- ^ a b c “谷岡太郎さん死去”. 朝日新聞・大阪朝刊: p. 39. (2007年5月3日):“谷岡太郎さん死去”. 朝日新聞・名古屋朝刊: p. 39. (2007年5月3日) - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
- ^ a b c “学園史抄(抜粋)” (PDF). 大阪商業大学高等学校 校友会. 2016年8月26日閲覧。
- ^ a b “谷岡学園要覧” (PDF). 谷岡学園. 2016年8月26日閲覧。
- ^ a b “谷岡学園ガイド 沿革”. 谷岡学園. 2016年8月26日閲覧。
- ^ a b “改革の現場 ミドルのリーダーシップ <53> 大学名変更・共学化・一学部へ大転換 至学館大学”. 日本私立大学協会 (2013年10月9日). 2016年8月26日閲覧。
- ^ “至学館高等学校 - 学校案内・学校の歴史 =”. 至学館高等学校. 2016年8月26日閲覧。
- ^ “同窓会のあゆみ”. 至学館大学同窓会. 2016年8月26日閲覧。
- ^ “1989年の創立以来、着実に発展を遂げてきました”. 神戸芸術工科大学. 2016年8月26日閲覧。
- ^ 「2000年秋の叙勲 勲三等以上と在外邦人、外国人、在日外国人の受章者一覧」『読売新聞』2000年11月3日朝刊
- ^ “谷岡学園総長の退職金3回、計13億円 「6億円は賞与」国税指摘”. 朝日新聞・大阪夕刊: p. 23. (2006年9月10日) - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
- ^ “平成18・19年度事業報告”. 中京女子大学同窓会 News: p. 2. (2008年5月3日) 2016年8月26日閲覧。