諸青来
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諸青来 | |
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『写真週報』1940年4月3日号 | |
プロフィール | |
出生: | 1881年(清光緒7年) |
死去: | 不詳 |
出身地: | 清松江府上海県 |
職業: | 政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 諸青來 |
簡体字: | 诸青来 |
拼音: | Zhū Qīnglái |
ラテン字: | Chu Ch'ing-lai |
和名表記: | しょ せいらい |
発音転記: | ヂュー チンライ |
諸 青来(しょ せいらい)は、中華民国の政治家。南京国民政府(汪兆銘政権)の要人。名は翔だが、号の青来で知られる。祖籍は浙江省紹興市。
事績
[編集]清末に日本に留学し、商工や経済を学んだ。帰国後は、清朝の農商部・財政部に任官する。後に、上海で神州大学を創設し、総務長となる。また、雑誌『銀行周報』編輯となり、上海大夏大学・持志大学・光華大学・中国公学で教授をつとめた。1934年(民国23年)、中国国家社会党に加入する。1937年(民国26年)の日中戦争(抗日戦争)勃発後は、上海の雑誌『新学識』において、国共合作反対の主張を展開した。
1940年(民国29年)3月、汪兆銘(汪精衛)の南京国民政府に加入した。(汪派)中国国民党中央政治委員と交通部部長を兼任している。翌年8月、全国経済委員会常務委員兼水利委員会委員長となる。1943年(民国31年)8月、立法院副院長に任命された。
南京国民政府瓦解後[1]に、諸青来は日本へ亡命した。しかし窮迫し、面識があった岩井英一(元上海総領事)を頼ろうとするも拒絶されている。その後、岩井の手配により、諸は神戸港から再び密出国せざるを得なかった[2]。最終的な行方は不明である。
注
[編集]参考文献
[編集]- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
- 毛沢東『毛沢東選集 第2巻』人民出版社、2008年。ISBN 7010009155。
- 岩井英一『回想の上海』「回想の上海」出版委員会、1983年。
- 関智英「中国人対日協力者の戦後と日本 -善隣友誼会設立への道-」『中国 社会と文化』31号、中国社会文化学会、2016年7月、163-178頁。
南京国民政府(汪兆銘政権)
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