諏訪頼嗣
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時代 | 南北朝時代 |
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生誕 | 嘉暦3年(1328年)?、元徳元年(1329年)? |
死没 | 不明 |
改名 | 頼継→頼嗣→普寛、頼寛(共に法名)[1] |
別名 | 小太郎(通称)[2] 、頼定?、直頼?[3] |
官位 | 兵部大輔、信濃権守[3] |
主君 | 北条時行 |
氏族 | 諏訪氏 |
父母 | 父:諏訪時継 |
兄弟 | 継宗、信嗣 |
子 | 頼隣?、信員?[2]、猶子:信嗣[4] |
特記 事項 | 諏訪大社上社大祝 |
諏訪 頼嗣 / 諏訪 頼継(すわ よりつぐ)は、南北朝時代の信濃の武将。諏訪大社上社大祝。諏訪時継の子。初名は頼継、のちに頼嗣に改名した[1]。
生涯
[編集]建武2年(1335年)、中先代の乱で祖父・頼重や父・時継が反乱を起こしたため、当時7歳であった頼継は[注釈 1]、諏訪大社の神領かつ「御射山御狩神事(みさやまみかりのしんじ)」が行われる場所であった神野(こうや、現:諏訪郡原山)に身を潜め続けなければならなかった。そのため、足利尊氏を恨んでいたという。また、逃亡生活を送る中で、幾つもの神験があったとされる[6]。
『守矢文書』には、興国元年/暦応3年(1340年)6月24日、当時数え12歳であった大祝頼継は北条時行と共に伊那郡の大徳王寺城において挙兵し、北朝方で信濃国守護の小笠原貞宗と戦闘を繰り広げたと記されている[7]。頼継は祖父・頼重や父・時継の北条氏に対する忠節が忘れ難かったために挙兵したという[7]。
同月26日、挙兵した貞宗は数日で城を包囲し、同月7月1日から攻城を開始した。頼継や時行は何度かの防衛戦には勝利したものの、なすすべもなく兵を失っていったため、4か月後の10月23日夜に大徳王寺城は落城し、頼継は諏訪に戻ったとされている[7]
正平6年/観応2年(1351年)12月15日、「信濃守頼嗣」の名で諏訪大社の神長官・守矢氏に祈願を依頼している[8]。
その他
[編集]- 正平6年/観応元年(1351年)12月15日には諏訪社神長官の守矢氏への祈願を依頼する「信濃守頼嗣」が[9]、翌正平7年/文和元年(1352年)1月の小笠原政長の書状の文中に「信濃守直頼」が[10]、それぞれ史料(古文書)上で確認できる。これらが「信濃権守」を称したとされる頼継[5]と同じ「信濃守」の官途を持っている[11]ことから、頼継・頼嗣・直頼はいずれも同一人物ではないかとする見解がある[12]。諏訪系図の一部でも「信濃権守頼継」の項に「改頼嗣又頼寛又直頼」とあり[13]、観応元年12月まで「頼嗣」を名乗っていた人物は、翌年1月までの僅かな期間内に「直頼」と改名した可能性がある[12]。その活動や改名時期からして、「直」の字は足利直義の偏諱を受けたものと考えられている[12]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b 「神氏系図 前田古写本之写」、12頁
- ^ a b c 『諏訪史料叢書』巻27
- ^ a b 『諏訪史料叢書』巻28
- ^ [1]「神氏系図 前田古写本之写」
- ^ a b 延川和彦ほか著・飯田好太郎補『諏訪氏系図 正編』(1921年、デジタル版104頁目)
- ^ 「神氏系図 前田古写本之写」
- ^ a b c 『大日本史料』第6編之6、200頁
- ^ 阪田、1994年、P.9。典拠は『守矢文書』、『南北朝遺文』関東編3 P.200 1940号。
- ^ 阪田、1994年、P.9。典拠は『守矢文書』、『南北朝遺文』関東編3 P.200 1940号。
- ^ 阪田、1994年、P.9。典拠は正平7年(1352年)正月日付「武田友光軍忠状」(『甲斐武田文書』、所収:「古文書」浅草文庫本、『南北朝遺文』関東編3 2175号)。
- ^ 「権守」(ごんのかみ)とは、守の権官のことであり、正規の官になると「○○権守」から「○○守」となる。
- ^ a b c 阪田、1994年、P.9。
- ^ 延川和彦ほか著・飯田好太郎補『諏訪氏系図 正編』(1921年、デジタル版104頁目)、太田亮『日本国誌資料叢書』第一巻(復刻版、講談社、1977年)。