諏訪部定治 (喜右衛門)
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時代 | 江戸時代前期 |
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死没 | 享保6年10月9日(1721年11月27日) |
別名 | 諏訪部喜右衛門 |
戒名 | 日寥 |
墓所 | 武蔵国雑司ヶ谷法明寺 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家綱、綱吉 |
氏族 | 清和源氏満快流諏訪部氏[1] |
父母 | 諏訪部定矩 |
兄弟 | 諏訪部定直、定治、栗原利実 |
子 | 諏訪部定利 |
諏訪部 定治(すわべ さだはる[1])は江戸時代前期の旗本。江戸幕府御馬預。
経歴
[編集]江戸幕府旗本諏訪部定矩の次男として生まれた[1]。万治2年(1659年)7月13日父の隠居により兄定直が跡を継いで630石を知行し[1]、12月21日[2]定治に相模国高座郡・近江国栗太郡の内200石が分知された[1]。寛文13年(1673年)4月18日叔父黒沢定幸の子次郎兵衛定伯が死去すると[3]、その子が幼少のため[4]、延宝2年(1674年)9月3日御預の御馬方として[1]代わりに徳川家綱御用馬を管理し、屋敷も支給された[4]。延宝3年(1675年)9月10日御馬預となった[2]。
貞享元年(1684年)9月16日[1]中山勘兵衛守安と共に御馬買衆として陸奥国へ赴き、馬を買い付けた[5]。貞享2年(1685年)と貞享4年(1687年)には門奈助右衛門忠重と、元禄2年(1689年)にも中山守安と御馬買衆を務めたが[5]、元禄4年(1691年)4月御馬買衆制度は廃止が決まり、盛岡藩等に直接江戸へ納入させる御買馬制度に移行した[6]。同年10月[7]中山守安等と最後の御馬買衆として[8]盛岡馬丁会所を訪れた際、盛岡城中の丸へ宴会に招かれ、近習波々伯喜太郎が南部駒牽唄を披露し、翌年以降江戸納入時の歌として歌い継がれたという[8]。
元禄14年(1701年)8月21日職務上の不手際により小普請に左遷され、宝永7年(1710年)7月27日致仕した[1]。享保6年(1721年)10月9日死去し、雑司ヶ谷法明寺に葬られた[1]。法名は日寥[1]。
親族
[編集]- 父:諏訪部元入定矩[1]
- 兄:諏訪部彦兵衛定直 - 正保3年(1646年)12月4日西城に出仕、万治2年(1659年)7月13日御馬預、天和元年(1681年)3月28日小普請、元禄4年(1691年)3月2日没[1]。
- 弟:栗原仁右衛門利実 - 栗原七郎兵衛利智の養子[1]。
- 子:諏訪部源右衛門定利 - 貞享3年(1686年)3月1日徳川綱吉に御目見、宝永7年(1710年)7月27日小普請、享保7年(1722年)1月23日没[1]。
子孫
[編集]- 孫:諏訪部権蔵定之 - 享保7年(1722年)4月2日跡を継いだが、享保10年(1725年)4月21日19歳で没[1]。
- 諏訪部源右衛門定親 - 定直の子宗右衛門高寛の次男[1]。享保10年(1725年)7月2日跡を継ぎ、寛延元年(1748年)9月28日小十人、明和4年(1767年)9月5日56歳で没[1]。
- 諏訪部友次郎定堅 - 明和4年(1767年)11月4日跡を継いだ[1]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 堀田正敦「諏訪部」『寛政重修諸家譜』 巻第346。NDLJP:2577375/37。
- 「諏訪部」『略譜』。諏訪・諏訪部 - 国立公文書館デジタルアーカイブ。
- 田畑吉正「黒沢」『断家譜』 第2、続群書類従完成会、1968年10月。
- 林述斎、成島司直「厳有院殿御実紀巻49」『徳川実紀』 第3編、経済雑誌社、1904年5月。NDLJP:1917845/414。
- 細井計, 兼平賢治, 杉山令奈「公儀御馬買衆と盛岡藩」『岩手大学教育学部研究年報』第61巻第2号、岩手大学教育学部、2002年2月、149-168頁、CRID 1390290699872295680、doi:10.15113/00011437、ISSN 0367-7370。
- 日本放送協会東北支部『東北民謡集』日本放送協会東北支部、1933年5月。NDLJP:1212840/32。
- 松岡裕治. “曲目解説<岩手県> な~も”. 日本の民謡~CDで聴く故郷の唄. 暁洲舎. 2018年10月29日閲覧。