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解誠

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

解 誠(かい せい、? - 1293年)は、モンゴル帝国に仕えた漢人将軍の一人。易州定興県の出身。

概要

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解誠は水戦に習熟した将であり、ある南宋軍との戦いでは敵船1,000を奪取する功績を挙げ、水軍万戸・兼都水監使に任じられている。焦湖の戦いではまず敵軍の戦艦300艘を鹵獲し、南宋水軍が救援に訪れると船上から大声で一喝し、委縮した南宋水軍を打ち破ったという。その後も安豊軍寿州復州泗州亳州などの諸州の平定などに功績を上げている。1253年癸丑)に始まる雲南・大理遠征にも従軍し、この時も功績により金虎符を下賜されている[1]

また、1258年戊午)より第4代皇帝モンケ・カアンの南宋親征が始まると、モンケの弟クビライが率いる別働隊には解誠を始め東平路行軍万戸厳忠済・保定軍民万戸張柔・真定万戸史権・曲陽行軍万戸邸浹・大名路行軍万戸王文幹・山東行尚書省兵馬都元帥張宏・水軍万戸張栄実らが従軍した[2]。モンケ・カアンが四川において急死するとクビライは友軍の救援のため鄂州を包囲したが、ここで解誠は敵軍の戦艦1千艘あまりを奪う功績を挙げ、クビライより称賛されている。解誠は至元30年(1293年)に亡くなり、息子の解汝楫が跡を継いでいる[3]

解汝楫は李璮の乱討伐や南宋侵攻などに功績を残し、その息子の解帖哥はベトナム出兵に従軍したことなどで知られる[4]

脚注

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  1. ^ 『元史』巻165列伝52解誠伝,「解誠、易州定興人。善水戦、従伐宋、設方略、奪敵船千計、以功授金符・水軍万戸、兼都水監使。焦湖之戦、獲戦艦三百艘。宋以舟師来援、誠拠舟厲声呵之、援兵不敢動、急移舟抵岸、乗勢追殺之、奪其軍餉三百餘斛。既又従攻安豊・寿・復・泗・亳諸州、倶有功。又従下雲南大理国、以功賜金虎符」
  2. ^ 池内1984, p. 10-11.
  3. ^ 『元史』巻165列伝52解誠伝,「従攻鄂、奪敵艦千餘艘、殺溺敵軍甚衆。世祖嘉其功、嘗降制奨之。至元三十年、卒、贈推忠宣力功臣・龍虎衛上将軍・同知枢密院事・上護軍、追封易国公、諡武定」
  4. ^ 『元史』巻165列伝52解誠伝,「子汝楫襲、従討李璮、平宋、累獲功賞、卒、贈推忠効節功臣・資徳大夫・中書右丞・上護軍、追封易国公、諡忠毅。子帖哥襲、従征広西、下静江府、改授水軍招討使。尋復為万戸、従征交趾、有功、陞広東道宣慰使、卒、贈資徳大夫・河南江北等処行中書省左丞・上護軍・平陽郡公、諡武宣。子世英、由監察御史、遷山南江北道僉事」

参考文献

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  • 池内功「フビライ政權の成立とフビライ摩下の漢軍」『東洋史研究』第43巻第2号、東洋史研究會、1984年9月、239-274頁、doi:10.14989/153948hdl:2433/153948ISSN 0386-9059CRID 1390572174787583872 
  • 元史』巻165列伝52解誠伝
  • 新元史』巻166列伝63解誠伝