西郷元正
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時代 | 戦国時代後期 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 永禄4年9月11日(1561年10月29日)[1] |
別名 | 孫太郎、孫六郎[2] |
戒名 | 恵玄[3] |
主君 | 松平元康 |
氏族 | 西郷氏 |
父母 | 父:西郷正勝 母:菅沼定則の娘[2] |
兄弟 | 元正、清員、勝茂、信正、清勝[4][5] |
子 | 義勝、正友、西郷家員の妻[注釈 1][5][6] |
西郷 元正(さいごう もとまさ)は、戦国時代の三河国の武将。
経歴
[編集]三河八名郡嵩山月ヶ谷城主の西郷正勝の嫡男として生まれる[2]。西郷氏は同じ東三河国人の田峯菅沼氏・野田菅沼氏などとともに、今川氏から自立した松平元康に従い、今川方への備えとして月ヶ谷城の北北東約1.8kmの地に五本松城を築いた。父の正勝は五本松城に移ったため、月ヶ谷城は元正が守備した[注釈 2][2]。
永禄4年(1561年)[注釈 3]三河国境に近い遠江宇津山城の今川方の将・朝比奈泰長が西郷領に侵入し、五本松城を急襲した。この時、元正は家臣10余人を連れて五本松城を訪ねて月ヶ谷城に帰る路次だったが、稗林峠の夫婦石(女夫石)の辺りで合戦に気付いて五本松城へ引き返した。元正は正勝らとともに勇戦したものの、父子ともに討死した[7][8]。西郷領はやがて松平氏の援軍を得た弟・清員が奪還し、清員の斡旋で元正の遺児・義勝が西郷氏の家督を継承した[3][9]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 黒田基樹『徳川家康の最新研究 伝説化された「天下人」の虚像をはぎ取る』朝日新聞出版〈朝日新書〉、2023年。ISBN 978-4-02-295209-7。
- 岡崎市役所 編『岡崎市史 別巻』 上、名著出版、1972年。
- 『新編 藩翰譜』 2巻、人物往来社、1967年。
- 『士林泝洄』 2巻、名古屋市教育委員会〈名古屋叢書続編〉、1967年。
- 『寛永諸家系図伝』斎木一馬; 林亮勝; 橋本政宣(校訂)、八木書店、2014年。ISBN 978-4-8406-3595-0。
- 『寛政重修諸家譜』 6巻、高柳光寿; 岡山泰四; 斎木一馬(校訂)、続群書類従完成会、2023年。ISBN 978-4-8406-3031-3。