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西郷元正

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
西郷 元正
時代 戦国時代後期
生誕 不明
死没 永禄4年9月11日1561年10月29日[1]
別名 孫太郎、孫六郎[2]
戒名 恵玄[3]
主君 松平元康
氏族 西郷氏
父母 父:西郷正勝 母:菅沼定則の娘[2]
兄弟 元正清員勝茂信正清勝[4][5]
義勝正友西郷家員の妻[注釈 1][5][6]
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西郷 元正(さいごう もとまさ)は、戦国時代三河国武将

経歴

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三河八名郡嵩山月ヶ谷城主の西郷正勝嫡男として生まれる[2]。西郷氏は同じ東三河国人田峯菅沼氏野田菅沼氏などとともに、今川氏から自立した松平元康に従い、今川方への備えとして月ヶ谷城の北北東約1.8kmの地に五本松城を築いた。父の正勝は五本松城に移ったため、月ヶ谷城は元正が守備した[注釈 2][2]

永禄4年(1561年[注釈 3]三河国境に近い遠江宇津山城の今川方の将・朝比奈泰長が西郷領に侵入し、五本松城を急襲した。この時、元正は家臣10余人を連れて五本松城を訪ねて月ヶ谷城に帰る路次だったが、稗林峠の夫婦石(女夫石)の辺りで合戦に気付いて五本松城へ引き返した。元正は正勝らとともに勇戦したものの、父子ともに討死した[7][8]。西郷領はやがて松平氏の援軍を得た弟・清員が奪還し、清員の斡旋で元正の遺児・義勝が西郷氏の家督を継承した[3][9]

脚注

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注釈

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  1. ^ 寛政重修諸家譜』は西郷家員の妻を西郷義勝の娘(元正の孫)としている[6]
  2. ^ 田峯菅沼氏は程なく今川氏に帰順[7]
  3. ^ 西郷氏菩提寺・正宗寺の位牌と『寛政重修諸家譜』による。『寛永諸家系図伝』『藩翰譜』などは永禄5年(1562年)の事とする[8]

出典

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  1. ^ 『藩翰譜』, p. 10.
  2. ^ a b c d 『寛政重修諸家譜』, p. 295.
  3. ^ a b 『寛永諸家系図伝』, § 清和源氏 癸二 西郷.
  4. ^ 『藩翰譜』, pp. 274–275.
  5. ^ a b 『寛政重修諸家譜』, pp. 295–296.
  6. ^ a b 『士林泝洄』, p. 70.
  7. ^ a b 黒田 2023, § 2.1.
  8. ^ a b 『岡崎市史』, p. 345.
  9. ^ 『寛政重修諸家譜』, pp. 296–267.

参考文献

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  • 黒田基樹『徳川家康の最新研究 伝説化された「天下人」の虚像をはぎ取る朝日新聞出版朝日新書〉、2023年。ISBN 978-4-02-295209-7 
  • 岡崎市役所 編『岡崎市史 別巻』 上、名著出版、1972年。 
  • 『新編 藩翰譜』 2巻、人物往来社、1967年。 
  • 士林泝洄』 2巻、名古屋市教育委員会〈名古屋叢書続編〉、1967年。 
  • 寛永諸家系図伝』斎木一馬; 林亮勝; 橋本政宣(校訂)、八木書店、2014年。ISBN 978-4-8406-3595-0 
  • 寛政重修諸家譜』 6巻、高柳光寿; 岡山泰四; 斎木一馬(校訂)、続群書類従完成会、2023年。ISBN 978-4-8406-3031-3