西能源四郎
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西能 源四郎(さいのう げんしろう、1859年12月4日(安政6年11月11日[1])- 1916年(大正5年)12月6日[1][2])は、日本の実業家、政治家。富山県会議員や衆議院議員を務め、両砺銀行を設立し頭取となった。幼名・源之助、本名・義彰、通称・源四郎[1]。号・五州、士強、耕萬里[1]。
経歴
[編集]越中国礪波郡広安村[1](のち富山県東礪波郡福野町を経て、現南砺市)で、先代・西能源四郎の長男として生まれる[3]。11歳で父が死去したため、母の実家で養育され、祖父・天富鼎太郎の薫陶を受けた[1][4]。その後、富山藩儒・岡田呉陽の家塾で漢文、詩文を修めた[1][4]。
自由民権運動に加わり、島田孝之らの越中改進党に参加した[1][4]。富山県会議員を3期務めた(明治19年9月〜同12年2月、同21年3月〜同25年6月、同29年8月〜同年10月)。[要出典]1905年5月15日投票の第10回衆議院議員総選挙に富山県郡部から出馬して当選し、衆議院議員を一期務め、この間、憲政本党、立憲国民党に所属した[1][2]。
実業界では、中越鉄道会社の発起人に加わり、1900年、両砺銀行頭取に就任した[1][2]。
また、福野南部小学校(旧東砺波郡福野町・現南砺市) の校歌を作詞した[5]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『富山大百科事典 下巻』北日本新聞社、1994年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 人事興信所編『人事興信録』4版、1915年。
- 桂正直編『中越名士伝』清明堂、1892年。