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西武モハ351形電車

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
西武モハ351形電車
(クモハ351形電車・初代)
基本情報
製造所 国鉄大井工場
主要諸元
軌間 1,067(狭軌) mm
電気方式 直流1,500 V架空電車線方式
車両定員 118人(座席60人)
車両重量 39.0 t
全長 16,800 mm
全幅 2,930 mm
全高 4,250 mm
車体 半鋼製
台車 TR14A
主電動機 直流直巻電動機[1][注釈 1]
主電動機出力 100 kW (1時間定格)
搭載数 4基 / 両
端子電圧 675 V
駆動方式 吊り掛け駆動
歯車比 2.52 (63:25)
制御装置 電空カム軸式 CS5
抵抗制御直並列組合せ制御
制動装置 電磁自動空気ブレーキ AMAE
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西武モハ351形電車(せいぶモハ351がたでんしゃ)は、かつて(1960年~1965年)西武鉄道に在籍した、日本国有鉄道(国鉄)よりクモハ14形100番台の払い下げを受けて導入した全長17m2扉構造の電車である[2]

概要

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1950年代後半における西武鉄道は、自社傘下の復興社所沢車両工場において新製した車両を増備する一方[3]、国鉄において廃車となった電車の払い下げを受け、並行して導入することによって輸送力増強を図った[3]。国鉄からの払い下げ車両は主に3扉構造の通勤形電車であるクモハ11形400番台(西武鉄道における形式はモハ371形)で占められていたが、1960年昭和35年)7月には2扉構造のクモハ14形100番台の払い下げを受けた[4][注釈 2]。西武鉄道に払い下げられたクモハ14100は、前述国鉄クモハ11形400番台と同様に木造車の台枠および主要機器を流用して車体を新製した、いわゆる「鋼体化車両」であり[5]1944年(昭和19年)3月に国鉄大井工場(現・JR東京総合車両センター)において落成した車両であった[5]。国鉄在籍晩年の同車は豊橋運輸区(静トヨ)に所属し、飯田線において運用されたのち、1959年(昭和34年)11月[2]廃車となり、翌1960年(昭和35年)7月[4]に西武鉄道へ払い下げられ、モハ351形352(初代)[4][注釈 3]として導入されたもので、終始1形式1両のみが在籍した[6]

モハ351形(以下「本形式」)は、1964年(昭和39年)1月31日付[7]で実施された車両記号改正において制御電動車を示す記号が「モハ」から「クモハ」に変更されたことに伴ってクモハ351形352(2代)と改称され[7]、さらに同年7月[6]にはクモハ251形252(3代)と改称・改番されたのち、1965年(昭和40年)4月[6]荷物電車への転用改造を施工しクモニ1形2(2代)と改称・改番、1978年(昭和53年)まで在籍した[8]

車体

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全長16,800mmの半鋼製2扉構造の車体を有し[5]、車内座席は国鉄在籍当時と同様、ボックスシートが客用扉間に計10脚設けられたセミクロスシート仕様[5]のまま導入された点が最大の特色である[2]。西武鉄道におけるクロスシート仕様車は、西武鉄道の前身事業者である武蔵野鉄道が1928年(昭和3年)に新製したクロスシート車であるデハ5560形・サハ5660形電車(後の西武モハ241形・クハ1241形)が戦時中に座席をロングシート化されて以降存在せず、本形式は西武鉄道初のクロスシート仕様車として導入された[4]。また、国鉄クモハ14形100番台の前身であるモハ62形が建築限界が狭小なトンネルが存在する身延線における運用を目的として設計・製造されたことから[5]、車体高がクモハ11形400番台など標準的な戦前製国鉄車両の寸法である3,755mmよりも105mm低い3,650mm[5]とされた点も特徴であった。側面窓配置はd1D9D1 1(d:乗務員扉, D:客用扉)と、国鉄在籍当時と変化はない[5][9]

車体塗装は導入当初車体下半分をマルーン・上半分をイエローとした2色塗りとされ[9]、1960年代以降ディープラズベリーとトニーベージュの2色塗り、いわゆる「赤電塗装」が西武鉄道における標準塗装となったことに伴って、本形式も同塗装に塗り替えられた[10]

主要機器

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本形式は導入当初、国鉄在籍当時の電装品を西武鉄道の他形式へ転用するため取り外し制御車(クハ)代用として運用されたが[11]1961年(昭和36年)9月以降に再び電装品を装着し、電動車(制御電動車)に復帰した[9][11][注釈 4]

電動車化改造に搭載した主要機器は、電空カム軸式間接自動制御装置CS5[4]、出力100kW級主電動機[1][4][注釈 1]釣り合い梁式台車DT10 (TR14) [4][注釈 5]と、いずれも当時の西武鉄道における流儀に則り国鉄制式機器で占められている[4]。制動装置はA動作弁を用い、電磁給排弁を併用したAMAE電磁自動空気ブレーキである[12]

導入後の変遷

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本形式は導入後池袋線系統に配属され[4]、主に狭山線の線内区間運用に専従し[4]、幹線系統における運用は休日に池袋 - 狭山湖(現・西武球場前)間において運行された、狭山湖駅に隣接する狭山スキー場利用客向けの臨時急行列車「スキー急行」運用程度に限られた[4]。本形式の運用実績次第で、さらにクロスシート車の払い下げを受ける計画も存在したとされるが[2]、2扉構造のクロスシート車では幹線系統におけるラッシュ時の運用に対応できないことなどから、クロスシート車の導入は本形式のみに終わった[4]

1964年(昭和39年)1月31日付[7]で実施された車両記号改正に際して、本形式はクモハ351形352(初代)と改称されたのち[6]、同年12月[13]411系クモハ411形(2代)の新製開始に先立って、同年7月[6][14]にはクモハ411形(初代)351系クモハ351形(2代)と改称・改番され[14]、本形式がクモハ351形(初代)352からクモハ251形(3代)252と改称・改番されるという[6]、玉突き的形式称号変更が実施された。

本形式は2扉構造のクロスシート車であることによる構造上の制約によって[4]、前述のように運用が限定されていたが、1965年(昭和40年)4月[4]には荷物電車化改造が実施され、クモニ1形2(2代)と改称・改番された[4][8]。荷物電車化改造後の本形式は、他の荷物電車と同様、主に新聞輸送など小手荷物輸送に充当され[8]、小手荷物輸送がトラック便に切り替えられた1978年(昭和53年)[8]まで運用されたのち、同年1月に廃車・解体処分された[6]

なお、荷物電車への改造後の本形式の詳細については西武モニ1形電車項目を参照されたい。

脚注

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注釈

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  1. ^ a b MT7・MT10・MT15のいずれかであるが、同一の性能特性を持つこれらの主電動機は西武鉄道において共通品として混用されていたことから、車両ごとの主電動機搭載状況を特定することは困難であった[要出典]
  2. ^ 西武鉄道は1952年(昭和27年)10月にクモハ14形100番台の前身であるモハ62形62001の払い下げを受けているが、同車は1950年(昭和25年)8月に落雷事故により被災焼失し廃車となったものであり、払い下げ後は復興社保谷車両工場(後の保谷車両管理所)において国鉄モハ50形(後のクモハ11形400番台)と同等の車体を新製しモハ311形319として復旧された。従ってクモハ14形100番台(モハ62形)をそのまま導入した例としては本形式が初となった[要出典]
  3. ^ 西武鉄道における車両番号(以下「車番」)付与基準は運転台の向きによって車番末尾の奇数・偶数を厳密に区分する方式を採用しており、同車は池袋本川越方に運転台を有する偶数向きの車両であったことから、本形式は1形式1両のみの存在であったにもかかわらずモハ351を欠番として「モハ352」を称した[要出典]後年本形式がクモハ251形(3代)へ改称された際に「クモハ252」を称した理由も同様である[要出典]
  4. ^ 『西武鉄道の国鉄電車』久保敏 (1992) p.87において制御車代用当時の記録(1961年9月)が、『西武鉄道車両カタログ』佐藤利生 (1992) p.175において電動車復帰後の記録(1962年2月)がそれぞれ残されており、同期間中に電動車化改造が実施されたものと推定される[独自研究?]
  5. ^ ただし、前掲『西武鉄道車両カタログ』佐藤利生 (1992) p.175において、住友製鋼所製のKS33L台車を装着した同車が記録されており、また前掲『西武鉄道の国鉄電車』久保敏 (1992) p.87および『西武鉄道 列車・運転の記録』鉄道ピクトリアル編集部 編 (1992) p.74においてはTR14台車を装着する同車が記録(1963年12月)されていることから、電動車化改造前後に最低二度台車交換が実施されたものと推定される[独自研究?]

出典

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  1. ^ a b 酒井英夫・今城光英・加藤新一 「私鉄車両めぐり(80) 西武鉄道 終」 (1970) p.69
  2. ^ a b c d 益井茂夫 「私鉄車両めぐり(39) 西武鉄道 2」 (1960) p.44
  3. ^ a b 今城光英・酒井英夫・加藤新一 「私鉄車両めぐり(80) 西武鉄道 3」 (1970) p.82
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 今城光英・酒井英夫・加藤新一 「私鉄車両めぐり(80) 西武鉄道 3」 (1970) p.84
  5. ^ a b c d e f g 沢柳健一 「鋼体化モハ50系と62系」 (2002) pp.52 - 53
  6. ^ a b c d e f g 園田政雄 「西武鉄道 時代を築いた電車たち」 (1992) p.159
  7. ^ a b c 今城光英・酒井英夫・加藤新一 「私鉄車両めぐり(80) 西武鉄道 3」 (1970) p.77
  8. ^ a b c d 『私鉄電車のアルバム 別冊A 荷物電車と電動貨車』 (1979) pp.42 - 43
  9. ^ a b c 佐藤利生 「西武鉄道車両カタログ」 (1992) p.175
  10. ^ 鉄道ピクトリアル編集部 「西武鉄道 列車・運転の記録(回顧編)」 (1992) p.74
  11. ^ a b 久保敏 「西武鉄道の国鉄電車」 (1992) p.87
  12. ^ 『私鉄電車のアルバム 別冊A 荷物電車と電動貨車』 (1979) pp.336 - 337
  13. ^ 『RM LIBRARY31 所沢車輌工場ものがたり(下)』 (2002) p.40
  14. ^ a b 園田政雄 「西武鉄道 時代を築いた電車たち」 (1992) p.158

参考文献

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  • 慶應義塾大学鉄道研究会 『私鉄電車のアルバム 別冊A 荷物電車と電動貨車』 交友社 1979年
  • 西尾恵介 『RM LIBRARY31 所沢車輌工場ものがたり(下)』 ネコ・パブリッシング 2002年2月 ISBN 4-87366-266-4
  • 鉄道ピクトリアル鉄道図書刊行会
    • 益井茂夫 「私鉄車両めぐり(39) 西武鉄道 2」 1960年7月(通巻108)号 pp.41 - 47
    • 今城光英・酒井英夫・加藤新一 「私鉄車両めぐり(80) 西武鉄道 3」 1970年1月(通巻233)号 pp.77 - 87
    • 酒井英夫・今城光英・加藤新一 「私鉄車両めぐり(80) 西武鉄道 終」 1970年4月(通巻236)号 pp.66 - 77
    • 鉄道ピクトリアル編集部 「西武鉄道 列車・運転の記録(回顧編)」 1992年5月(通巻560)号 pp.74 - 75
    • 久保敏 「西武鉄道の国鉄電車」 1992年5月(通巻560)号 pp.86 - 89
    • 園田政雄 「西武鉄道 時代を築いた電車たち」 1992年5月(通巻560)号 pp.150 - 160
    • 佐藤利生 「西武鉄道車両カタログ」 1992年5月(通巻560)号 pp.169 - 197
    • 沢柳健一 「鋼体化モハ50系と62系」 2002年9月(通巻721)号 pp.41 - 53