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西川博夫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

西川 博夫(にしかわ ひろお、1918年 - 1944年7月3日)は、日本の元アマチュア野球選手。埼玉県出身。ポジションは外野手

来歴・人物

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浦和中学(現・埼玉県立浦和高等学校)在学中は、甲子園に2回(春2回〈1935年1937年〉)出場した。浦和中は1935年春には、初出場(埼玉県内では川越中学〈現・埼玉県立川越高等学校〉に次いで2番目の出場)ながらベスト8に入る活躍を見せたが、1937年春の大会では初戦(3月29日)の対・滝川中学〈現・滝川中学校・高等学校〉戦で0-27という大敗を喫した[1]

1938年早稲田大学に入学、東京六大学リーグ戦にも出場した。しかし早大卒業後応召され、1944年7月3日中国北支石門陸軍病院にて戦病死した。享年26。

東京ドーム内の野球殿堂博物館にある戦没野球人モニュメントに、彼の名前が刻まれている[2]

脚注

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  1. ^ 浦和中が喫した27失点は、選抜高等学校野球大会におけるワースト記録。また、高校野球本大会における最多敗差試合として残っている。全国高等学校野球選手権大会を入れると、東海大山形1985年夏に喫した29失点がある(1985年8月14日、対PL学園戦。スコアは7-29でPL学園は1回裏~8回裏まで毎回得点(高校野球史上唯一)だった。)
  2. ^ 戦没野球人モニュメント-モニュメントに刻まれた戦没野球人一覧(野球殿堂博物館のページ)