西園寺実顕
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時代 | 鎌倉時代中期 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 文永9年12月2日(1272年12月23日) |
官位 | 正三位、参議 |
主君 | 後深草天皇→亀山天皇 |
氏族 | 西園寺家 |
父母 | 父:西園寺公相、母:藤原定家の娘[1] |
兄弟 |
実守、尊教、実兼、嬉子、実康、実顕、勝恵、橋本実俊、相子、近衛基平室、徳大寺実孝室、九条忠教室 養兄弟:寿子 |
妻 | 西園寺公基の娘[1] |
西園寺 実顕(さいおんじ さねあき)は、鎌倉時代中期の公卿。太政大臣・西園寺公相の三男[1]。官位は正三位・参議。
経歴
[編集][2]建長5年(1253年)に叙爵。侍従を経て、正嘉元年(1257年)正五位下・左近衛少将に叙任される。
播磨介、中宮権亮を歴任。文永7年(1270年)正三位・参議として公卿に列すが、翌文永8年(1271年)出家。文永9年(1272年)、薨去。
異母兄・実兼の生年と比較すると、20代あまりで没したと思われる。そのため、嗣子もなく官位も参議のままであった。
官歴
[編集]- 建長5年(1253年)2月19日:従五位下
- 建長6年(1254年)正月10日:従五位上(行幸前太政大臣北山第賞)
- 建長8年(1256年)正月26日:侍従
- 康元2年(1257年)正月20日:左近衛少将
- 正嘉元年(1257年)3月29日:正五位下
- 正嘉2年(1258年)正月13日:播磨介
- 正嘉2年12月14日(1259年1月):従四位下
- 正嘉3年(1259年)3月8日:従四位上(朝覲行幸。諄子内親王給)
- 正元2年(1260年)3月29日:左近衛中将
- 文応元年(1260年)11月15日:正四位下(大嘗會叙位。大宮院御給)
- 弘長3年(1263年)4月5日:中宮権亮
- 文永4年(1267年)2月1日:従三位
- 文永6年(1269年)3月29日:伊予権守
- 文永7年(1270年)正月21日:参議
- 文永7年(1270年)9月4日:正三位
- 文永8年(1271年)11月12日:出家(依發心也)