西博
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にし ひろし 西 博 | |
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『競馬 国営競馬6年の歩み』(1954年) 掲載写真より | |
生誕 |
1913年10月2日[1][2] もしくは6日[3][4] 日本 石川県[1][3][4] |
死没 | 1974年12月16日(61歳没)[5] |
出身校 | 中央商業高等学校[3][4] |
職業 | |
肩書き |
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子供 | 西 博之(長男)[4] |
西 博(にし ひろし、1913年10月2日[1][2]もしくは10月6日[3][4] - 1974年12月16日[5])は、日本の実業家、馬主。
経歴・人物
[編集]1913年、石川県出身[4]。1931年に中央商業高等学校を卒業[4]。西清太郎商店業務執行社員を経て1941年に西商事株式会社社長[3][4]。1943年に関東金属常務、1946年に西商店社長、1948年に加陽金属社長就任[4]。1950年再び西商事社長、1957年に西製鋼株式会社を設立し社長に就任[4]。1974年12月16日、病気のため死去[5]。61歳没。なお、西死去後、西製鋼は1980年に大三製鋼に吸収合併されている。
馬主活動
[編集]日本中央競馬会に登録していた馬主としても知られた。勝負服の柄は青、白三本輪。冠名には「ハク」を用いた[1]。
1958年には所有馬ハクチカラがアメリカへ遠征、これは日本調教馬として初の海外遠征であった[6]。西への競馬への理解について、日本中央競馬会発行の『日本ダービー25年史』内においても「氏の競馬界に貢献するところは大きい」と評されている[1]。
主な所有馬
[編集]太字は八大競走。
- フクレイ(1948年中山大障害・春)
- ハクリヨウ(1953年カブトヤマ記念、菊花賞、1954年東京杯、天皇賞・春、毎日王冠、1955年金杯、目黒記念・春)
- ハクチカラ(1956年東京優駿、カブトヤマ記念、1957年目黒記念・春、東京杯、日本経済賞、毎日王冠、目黒記念・秋、天皇賞・秋、有馬記念)
- ハクレイ(1956年中山大障害・秋)
- マサタカラ(1957年カブトヤマ記念、1958年ダイヤモンドステークス、オールカマー)
- ハククラマ(1959年オータムハンデキャップ、セントライト記念、菊花賞)
- ハクシヨウ(1960年朝日盃3歳ステークス、1961年東京優駿)
- ハクズイコウ(1966年アメリカジョッキークラブカップ、天皇賞・春)
- ハクエイホウ(1969年日本短波賞)
- ハクホオショウ(1972年カブトヤマ記念、1973年安田記念、札幌記念、オールカマー)