西三雄
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 和歌山県海南市 |
生年月日 | 1938年9月19日 |
没年月日 | 2017年4月5日(78歳没) |
身長 体重 |
170 cm 75 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1962年 |
初出場 | 1962年8月25日 |
最終出場 | 1968年9月25日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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コーチ歴 | |
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この表について
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西 三雄(にし みつお、1938年9月19日 - 2017年4月5日[1])は、和歌山県海南市出身のプロ野球選手(投手)・コーチ。
経歴
[編集]実家はみかん園で、三人兄弟の末っ子として生まれる。大成高校卒業後の1957年に丸善石油へ入社し、業務課資材係で勤務する傍ら、兄の五十六と共に主戦投手として活躍。入社1年目から4年連続で都市対抗に出場し、1957年の大会は2回戦の日鉄二瀬戦で初勝利を挙げる。2年目の1958年には肋間神経痛で不調に終わったが、3年目の1959年には四国予選準決勝の東レ愛媛戦でノーヒットノーランを達成し、本大会ではエースとして3勝を挙げ、チームの初優勝に貢献したと共に橋戸賞を獲得。都市対抗以外では1年目の秋に行われた産別対抗で優勝投手となったほか、4年目の1960年には社会人全日本チームに選出されて米国遠征に参加。
大毎・大洋・広島・近鉄・阪急の5球団が目を付けていたが、1962年の大会で日本生命との準決勝に敗れた後、大毎オリオンズへ入団。大会から僅か3週間後の8月25日に西鉄戦(東京)で一軍初登板を果たすと、10月1日の東映戦(東京)でプロ初勝利を挙げる。終盤に2勝を挙げ、2年目の1963年には先発・リリーフと投げまくり、6月27日の近鉄戦(日生)では初完投・完封勝利を記録[2]。同年には自己最多の47試合に登板して2完封を含む6勝を挙げたが、1964年から1965年にかけてはビハインドリリーフが与えられる役割の中心となり、ローテーションの谷間では先発も務めた。1964年は8月25日の東映戦(東京)で完投勝利に加えて嵯峨健四郎からダメ押しのソロ本塁打を放ち[3]、1965年には4月25日の東映戦(東京)で完投勝利の傍ら二塁打を含む2安打、7月25日の阪急戦(西宮)ではリリーフながら二塁打を含む2安打を記録。この年は打の方で23打数6安打、打率が.261であった[4]。1966年には鈴木隆とのトレードで大洋ホエールズへ移籍。2年間で9勝を挙げ、9勝中7勝は広島戦という「鯉キラー」ぶりを発揮し、1966年8月27日の広島戦(広島市民)でセ・リーグ時代唯一の完投勝利をマーク[5]。1968年にオリオンズへトレードで復帰したが、9月25日の阪急戦(東京)が最終登板となった。同年引退。
引退後はロッテのスコアラー兼打撃投手(1969年 - 1972年)を経て、太平洋→クラウン→西武で先乗りスコアラー[6](1973年 - 1975年)・二軍投手コーチ(1976年, 1978年 - 1980年, 1984年 - 1988年, 1992年 - 1993年, 1996年 - 1997年)・一軍投手コーチ(1977年)・二軍育成コーチ(1995年)・四国地区担当スカウト(1982年 - 1983年, 1989年 - 1991年, 1994年)を務めた。コーチ時代は若手投手の素質を伸ばす指導力には定評があり、どうしても直さなくてはいけない欠点は矯正[7]。一つの型に嵌め込まず、丁寧で分かりやすい指導であった[8]。スカウト時代は1年目に工藤公康の獲得に関わった[9]ほか、高校2年時の郭泰源を台湾まで行って視察[10]。
2017年4月5日午前8時32分、肺炎に伴う呼吸不全により死去。享年78歳。
詳細情報
[編集]年度別投手成績
[編集]年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
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1962 | 大毎 東京 |
10 | 5 | 0 | 0 | 0 | 2 | 1 | -- | -- | .667 | 144 | 33.0 | 38 | 3 | 8 | 0 | 0 | 27 | 0 | 0 | 19 | 16 | 4.36 | 1.39 |
1963 | 47 | 17 | 2 | 2 | 1 | 6 | 9 | -- | -- | .400 | 619 | 151.0 | 131 | 15 | 37 | 3 | 6 | 95 | 1 | 0 | 65 | 51 | 3.04 | 1.11 | |
1964 | 42 | 9 | 1 | 0 | 0 | 5 | 6 | -- | -- | .455 | 491 | 123.2 | 103 | 16 | 31 | 3 | 1 | 67 | 3 | 0 | 37 | 32 | 2.32 | 1.08 | |
1965 | 38 | 6 | 1 | 0 | 0 | 4 | 3 | -- | -- | .571 | 389 | 92.1 | 91 | 8 | 28 | 1 | 1 | 57 | 1 | 1 | 38 | 34 | 3.33 | 1.29 | |
1966 | 大洋 | 23 | 4 | 1 | 0 | 0 | 5 | 2 | -- | -- | .714 | 222 | 54.1 | 44 | 5 | 15 | 1 | 1 | 23 | 1 | 0 | 25 | 23 | 3.83 | 1.09 |
1967 | 23 | 2 | 0 | 0 | 0 | 4 | 3 | -- | -- | .571 | 229 | 55.1 | 50 | 4 | 15 | 0 | 1 | 39 | 0 | 0 | 24 | 21 | 3.44 | 1.17 | |
1968 | 東京 | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | -- | -- | .000 | 47 | 9.1 | 16 | 2 | 3 | 1 | 0 | 4 | 0 | 0 | 11 | 4 | 4.00 | 2.04 |
通算:7年 | 188 | 43 | 5 | 2 | 1 | 26 | 25 | -- | -- | .510 | 2141 | 519.0 | 473 | 53 | 137 | 9 | 10 | 312 | 6 | 1 | 219 | 181 | 3.14 | 1.18 |
- 各年度の太字はリーグ最高
- 大毎(毎日大映オリオンズ)は、1964年に東京(東京オリオンズ)に球団名を変更
背番号
[編集]- 58 (1962年)
- 16 (1963年 - 1965年)
- 22 (1966年 - 1967年)
- 16 (1968年)
- 78 (1976年 - 1980年)
- 86 (1984年 - 1988年)
- 84 (1992年 - 1993年)
- 89 (1995年 - 1997年)
脚注
[編集]- ^ “プロ通算26勝の西三雄さんが逝去 西武が発表”. デイリースポーツ. (2017年4月6日) 2017年4月6日閲覧。
- ^ クラシックSTATS鑑賞 1962・63年西三雄、全登板成績【橋戸賞投手、期待のプロ入り】
- ^ クラシックSTATS鑑賞 1964年西三雄、全登板成績【ビハインドリリーフでチームを支える】
- ^ クラシックSTATS鑑賞 1965年西三雄、全登板成績【勝利投手のために自分でも打ちます】
- ^ クラシックSTATS鑑賞 1966~68年西三雄、全登板成績【大洋で鯉料理に舌鼓】
- ^ 我が道、野球人 東尾修のスポニチ連載コラム
- ^ 1979年西武ライオンズファンブックより。
- ^ 1980年西武ファンブックより。
- ^ 秋山、伊東、工藤を獲得したドラフト戦略は「裏工作」と揶揄された。
- ^ 郭泰源 衝撃の快速球を投じた“オリエンタル・エクスプレス”