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裴 枢(はい すう、841年 - 905年)は、唐末の人物。字は環中。本貫は河東郡聞喜県。
裴枢は、咸通12年(871年)、進士に登第し、藍田県尉となり、弘文館(中国語版)に勤務した。僖宗が入蜀する際に付き従い、殿中侍御史に抜擢された。
昭宗の龍紀元年(889年)、給事中となり、京兆尹へと転任した。裴枢は、常に清流派であると自認していた[1]。登州刺史に左遷され、また、滝州司戸参軍(中国語版)に左遷された。
天祐2年(905年)、滑州に赴く前に、白馬駅にて殺害された(白馬の禍)。
- ^ 『新五代史』巻35唐六臣伝第23「序文」:初,唐天祐三年,梁王欲以嬖吏張廷範為太常卿,唐宰相裴枢以謂太常卿唐常以清流為之,廷範乃梁客将,不可。梁王由此大怒,曰:「吾常語裴枢純厚不陥浮薄,今亦為此邪!」
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