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行澤久隆

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
行沢久隆から転送)
行沢 久隆(行澤 久隆)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 大阪府大阪市此花区
生年月日 (1953-07-11) 1953年7月11日(71歳)
身長
体重
176 cm
72 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 三塁手遊撃手二塁手
プロ入り 1975年 ドラフト2位
初出場 1976年4月7日
最終出場 1988年10月27日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

行澤 久隆(ゆきざわ ひさたか、1953年7月11日 - )は、大阪府大阪市此花区出身の元プロ野球選手内野手)。

現役時代の登録名は行沢 久隆となっていたが、現在、球団公式の氏名表記は行澤 久隆となっている。

来歴

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大阪市立春日出小学校大阪市立春日出中学校卒。PL学園高校では2年の時、遊撃手として1970年夏の甲子園で決勝に進むが、東海大相模高に敗れ準優勝に留まる[1]。同年秋の岩手国体では、決勝で大分商を降し優勝。1学年上のチームメートに新美敏新井宏昌がいた。翌年の夏の甲子園にも、同期のエース田代克業(中大本田技研)を擁し連続出場するが、1回戦で郡山高に敗退[1]

卒業後は中央大学へ進学。東都大学野球リーグでは3度の優勝に貢献。1973年全日本大学野球選手権大会では、決勝で愛知学院大のエース小林秀一を打ち崩し優勝。1974年明治神宮野球大会でも江川卓を擁する法大を決勝で破り優勝している。1975年には第11回アジア野球選手権大会日本代表に選出された。大学同期に田村政雄福田功のバッテリーがいる。リーグ通算75試合出場、259打数64安打、打率.247、5本塁打、25打点。ベストナイン(遊撃手)2回。

1975年ドラフト2位で日本ハムファイターズに入団。一年目から一軍に定着し、遊撃手のレギュラーを菅野光夫と争う。

1979年シーズン途中に吉岡悟との交換トレードで西武ライオンズに移籍。当時の西武にはレギュラー遊撃手がおらず、大原徹也広瀬宰らと交互に試合に出場する。1981年にはスティーブの一塁コンバートの影響で三塁手に回される。1984年には山崎裕之の衰えもあって主に二塁手として起用され、自己最高の105試合に出場、打率.270の好成績をあげた。その後も内野ならどこでも守れるユーティリティプレイヤーとして重宝され活躍、地味ながらも西武の黄金時代造りの一翼を担う。1988年限りで現役引退。

日本ハム時代の1976年4月29日の対近鉄戦で8回、1死満塁でプロ入りわずか3打席目にしてプロ入り初本塁打となる満塁本塁打を放つが、興奮のあまり一塁走者を追い越してしまい、アウトとなる(記録は3打点の単打)[2]。正式なプロ入り初本塁打は翌1977年まで、満塁本塁打は西武移籍後の1981年まで待たねばならなかった。

引退後、スカウトを経て1992年 - 2006年の15年間にわたり一軍打撃、二軍打撃、二軍守備走塁コーチを務めた。松井稼頭央中島裕之ら米国でプレーした選手も育て上げた[3]。監督として尊敬しているのは西武時代監督だった根本陸夫で「根本さんは試合後、ミスしても何も言わなかった。ただご苦労さんと、それだけ。そう言われるとこっちは頑張らなきゃ、やらなきゃいけないと思った。」、常に先を見ていた根本を行澤は「男としてああいう生き方をしたい」と言う[3]。その後2007年からは球団編成部・プロ担当に転身した。

2010年、西武二軍監督に就任。2012年10月1日、本人から今季限りで辞任したい旨の申し入れをして球団が了承したため、退任した。

2013年日本経済大学職員となり[3]2014年2月に同大学の硬式野球部の監督に就任[4]2018年限りで監督を退任した。

現在は、埼玉県所沢市にある野球教室「ヒーローズベースボールアカデミー」にコーチとして籍を置いている[5]

人物

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長らく独身を通していたことも知られ、毎年2月に発売される「週刊ベースボール」の選手名鑑号の「家族構成(独身者は好きなタレント、あるいは理想の女性のタイプ)」の欄には毎年「花の独身貴族継続中」と記述、同誌読者コーナーでは栗橋茂岡持和彦(岡持は1988年結婚)らとともにしばしば独身ネタの題材・標的にされた。また、主婦顔負けの家庭料理の達人(とくにカレーには仲間うちの評価が高い)でもあった。2006年に初婚、結婚公表時は行澤を知る多方面の者たちから大いに祝福された。

大学時代からのグラブをプロ入りしてからも「体の一部」というほどずっと愛用しており、わざわざ専用のバッグに入れて持ち運ぶなど扱いには人一倍気を配っていた。その愛用のグラブはのちに辻発彦へ譲っている。

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1976 日本ハム 69 95 87 6 14 0 0 0 14 10 0 0 3 2 3 0 0 16 1 .161 .185 .161 .346
1977 113 209 189 17 37 4 0 2 47 8 5 5 9 1 7 0 3 31 4 .196 .235 .249 .484
1978 85 141 126 12 26 6 1 1 37 12 2 1 7 2 5 0 1 14 3 .206 .239 .294 .532
1979 6 1 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000 .000 .000 .000
西武 68 201 188 15 41 6 0 5 62 12 6 4 7 0 5 0 1 25 2 .218 .242 .330 .572
'79計 74 202 189 15 41 6 0 5 62 12 6 4 7 0 5 0 1 25 2 .217 .241 .328 .569
1980 81 192 181 24 49 10 0 3 68 18 3 5 4 1 6 0 0 15 4 .271 .293 .376 .668
1981 97 251 226 32 58 13 3 4 89 22 3 4 11 2 4 0 8 26 7 .257 .292 .394 .685
1982 82 195 169 19 37 12 1 5 66 20 6 2 8 1 14 0 3 29 3 .219 .289 .391 .679
1983 82 64 58 7 14 5 0 0 19 4 0 0 3 1 2 0 0 10 1 .241 .262 .328 .590
1984 105 277 241 38 65 14 3 9 112 30 5 2 18 3 15 0 0 28 5 .270 .309 .465 .774
1985 71 87 81 12 18 5 0 3 32 9 1 1 3 0 3 0 0 13 2 .222 .250 .395 .645
1986 64 69 61 3 13 2 0 0 15 2 1 0 4 0 4 0 0 9 2 .213 .262 .246 .507
1987 57 66 58 6 12 1 0 3 22 7 1 0 2 1 5 1 0 13 2 .207 .266 .379 .645
1988 24 7 7 2 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 0 2 0 .143 .143 .143 .286
通算:13年 1004 1855 1673 193 385 78 8 35 584 154 33 24 79 14 73 1 16 231 36 .230 .267 .349 .616

記録

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初記録
節目の記録

背番号

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  • 4 (1976年 - 1979年途中)
  • 8 (1979年途中 - 1987年)
  • 22 (1988年)        
  • 87 (1992年 - 2006年)
  • 81 (2010年 - 2012年)

脚注

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  1. ^ a b 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年
  2. ^ 同点の9回裏二死一、二塁で打者は本塁打。二塁走者が本塁を踏む前に打者走者が一塁走者を追い越した場合、どうなる?”. 週刊ベースボールONLINE (2017年7月11日). 2022年6月10日閲覧。
  3. ^ a b c ベースボールマガジン、2015年3月号、P69
  4. ^ 行沢監督(日経大)アマ初采配 受け継ぐ根本イズム 福岡六大学野球春季L19日開幕
  5. ^ 行澤 久隆 | 監督・コーチ陣 | 野球教室について」『埼玉所沢の野球教室ならヒーローズベースボールアカデミー』。2024年6月10日閲覧

関連項目

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外部リンク

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