藤田たき
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藤田たき | |
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『アサヒグラフ』1947年11月26日号 | |
生誕 |
1898年12月23日 愛知県名古屋市橦木町(現・東区) |
死没 | 1993年1月4日(94歳没) |
国籍 | 日本 |
出身校 |
女子英学塾 ブリンマー大学 |
職業 | 婦人運動家、教育者 |
肩書き |
津田塾大学学長 労働省婦人少年局長 新日本婦人同盟会長 |
藤田 たき(ふじた たき、1898年12月23日 - 1993年1月4日)は、大正-平成期の婦人運動家・教育者。津田塾大学学長、労働省婦人少年局長、新日本婦人同盟会長を務めた。
来歴
[編集]愛知県名古屋市橦木町(現在の東区)出身。1920年に女子英学塾を卒業し、アメリカのブリンマー大学に留学する。帰国後、母校の教壇に立ちながら婦人問題について研究を重ね、1928年の汎太平洋婦人会議に市川房枝とともに日本代表として参加、婦人参政権運動や婦人問題研究所創設に尽力した。
1945年8月25日、藤田、市川房枝、赤松常子、山高しげり、河崎なつ、山室民子、久布白落実らによって「戦後対策婦人委員会」が組織された[1]。
同年11月3日、戦後対策婦人委員会の政治小委員会が母体となり、「新日本婦人同盟」が結成された[2]。市川が初代会長に選出され、藤田は中央委員に名を連ねた[3]。
1947年3月24日、市川が公職追放を受け、新日本婦人同盟の会長を辞任。後任には藤田が就いた[4]。
1950年6月4日に行われた第2回参議院議員通常選挙に全国区から緑風会公認で立候補したが落選した[5]。同年10月13日、市川の公職追放が解除される。11月19日、新日本婦人同盟は団体名を「日本婦人有権者同盟」に改称。市川は会長に復帰し、藤田は副会長となった[6]。
1951年から4年間、労働省婦人少年局長を務めた。また、日本における女子大学創設に尽力し、自らも1961年に女子英学塾の後身である津田塾大学学長に就任した。また、国連婦人の地位委員会会長などを務め、国際舞台の場でも女性の地位向上に尽くした。
テレビ出演
[編集]脚注
[編集]- ^ “『日本女性史事典 トピックス 1868-2015』”. 日外アソシエーツ. 2024年2月27日閲覧。
- ^ 『日本女性史大辞典』, p. 547.
- ^ 『日本婦人有権者同盟年表 参政権と歩んだ40年』 1985, pp. 8–10.
- ^ 『日本婦人有権者同盟年表 参政権と歩んだ40年』 1985, p. 16.
- ^ 『国政選挙総覧 1947-2016』541頁。
- ^ 『日本婦人有権者同盟年表 参政権と歩んだ40年』 1985, p. 30.
参考文献
[編集]- 井手文子「藤田たき」(『国史大辞典 15』(吉川弘文館、1996年) ISBN 978-4-642-00515-9)
- 小野沢あかね「藤田たき」(『日本歴史大事典 3』(小学館、2001年) ISBN 978-4-09-523003-0)
- 『国政選挙総覧:1947-2016』日外アソシエーツ、2017年。
- 金子幸子、黒田弘子、菅野則子、義江明子 編『日本女性史大辞典』吉川弘文館、2008年1月10日。ISBN 978-4642014403。
- 『日本婦人有権者同盟年表 参政権と歩んだ40年 1945年~1985年』日本婦人有権者同盟、1985年11月3日。