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藤江清志

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
藤江 清志
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 大阪府
生年月日 (1931-02-13) 1931年2月13日(93歳)
身長
体重
171 cm
60 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1953年
初出場 1953年5月10日
最終出場 1954年8月3日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴

藤江 清志(ふじえ せいし、1931年2月13日 - )は、大阪府出身の元プロ野球選手投手)・コーチ通訳

経歴

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旧制関西学院中等部から1949年関西学院大学へ進学し、3年次の1951年と4年次の1952年には関西六大学リーグ2連覇に貢献。大学時代には「ミラクル藤江 努力の人」と呼ばれ、1952年の第1回全日本大学野球選手権大会準優勝に貢献の原動力にもなった。豊かなアマチュア時代の経験を買われ、大学卒業後の1953年南海ホークスへ入団。奇怪なフォームからシュートカーブシンカーを組み立てる技巧派の即戦力投手として期待されたが、体の小ささが災いして実力を発揮できず、1954年に現役を引退。

僅か2年の現役生活であったが、引退後も南海に残留。マネージャー(1955年 - 1965年)・渉外課長(1966年 - 1967年)・一軍投手コーチ(1968年 - 1969年)・渉外課長兼通訳(1970年 - 1971年)と歴任し、1973年からは阪急ブレーブスに一軍投手コーチとして移籍。1974年からは企画調査担当兼チーフスカウトとして大物外国人選手の調査に力を入れ、1978年退団。1979年からはドン・ブレイザー監督の招聘で、前年最下位の阪神タイガース一軍投手コーチに就任。弱体投手陣と言われていた状況下で小林繁江本孟紀山本和行の3人を軸に、工藤一彦伊藤文隆大町定夫福間納中田良弘藤原仁を育てた。江本とは中西太監督と共に合わず[1][2]1981年退任。1982年からは編成部長となり、ランディ・バースリチャード・ゲイルを獲得するなど活躍していたが、1985年脳梗塞で倒れ入院。命に別状は無く、無事に復帰。

現在は全国野球振興会会員。

詳細情報

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年度別投手成績

[編集]




















































W
H
I
P
1953 南海 18 6 1 0 0 2 4 -- -- .333 269 66.1 49 2 28 -- 2 28 1 1 26 21 2.82 1.16
1954 7 2 1 1 0 1 0 -- -- 1.000 109 23.1 18 0 23 -- 3 5 0 0 11 11 4.13 1.76
NPB:2年 25 8 2 1 0 3 4 -- -- .429 378 89.2 67 2 51 -- 5 33 1 1 37 32 3.21 1.32

年度別打撃成績

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O
P
S
1953 南海 18 21 21 1 4 0 0 0 4 2 0 0 0 -- 0 -- 0 3 0 .190 .190 .190 .380
1954 7 7 7 0 2 0 0 0 2 0 0 0 0 0 0 -- 0 2 0 .286 .286 .286 .572
通算:2年 25 28 28 1 6 0 0 0 6 2 0 0 0 0 0 -- 0 5 0 .214 .214 .214 .428

記録

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背番号

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  • 1 (1953年 - 1954年)
  • 50 (1968年 - 1969年)
  • 64 (1973年)
  • 85 (1979年 - 1981年)

脚注・出典

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  1. ^ 「ベンチがあほやから野球でけへん」~球史に残るあの言葉
  2. ^ 【真実】江本孟紀、電撃引退の裏話(エモやんコラボ④) - YouTube

関連情報

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主な書籍

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  • シンキングベースボール~考える野球をやろう~(ブレイザーとの共著、1971年、講談社

関連項目

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