藤本英男
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藤本英男 | |||||||||||||||||||||||||||
個人情報 | |||||||||||||||||||||||||||
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国籍 | 日本 | ||||||||||||||||||||||||||
生誕 | 1944年6月24日(80歳) 日本 徳島県美馬市美馬町 | ||||||||||||||||||||||||||
スポーツ | |||||||||||||||||||||||||||
競技 | レスリング | ||||||||||||||||||||||||||
種目 | グレコローマンスタイル | ||||||||||||||||||||||||||
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藤本 英男(ふじもと ひでお、1944年(昭和19年)6月24日 - )は、日本の元レスリング選手、日本体育大学名誉教授[1]。徳島県美馬市美馬町出身。日本体育大学卒。1968年メキシコシティーオリンピック銀メダリスト。
来歴
[編集]徳島県立穴吹高等学校レスリング部で吉田廣一に師事する[2]。
日本体育大学2年生の1964年に、東京オリンピックのレスリング会場となった駒沢体育館で得点板の掲示係を務める[2]。
1967年、ルーマニアのブカレストで行われたレスリング世界選手権においてグレコローマン・フェザー級で3位となる[3]。
1968年、メキシコオリンピックにレスリング日本代表として出場し、グレコローマン・フェザー級で銀メダルを獲得する[2][4][5]。
1970年にカナダのエドモントンで行われたレスリング世界選手権においてグレコローマン62kg級で優勝[6]、1971年、ブルガリアのソフィアで行われたレスリング世界選手権においてグレコローマン62kg級で3位となる[7]。
1972年、ミュンヘンオリンピックにレスリング日本代表として出場し、グレコローマン62kg級4位となる[2][4]。このオリンピックを最後に現役を引退し、2013年3月に退任するまで日本体育大学でコーチ・監督・部長を歴任する[2][8]。
親族
[編集]著書
[編集]- 藤本英男、柳川益美『レスリング―勝つためのトレーニング』講談社〈講談社スポーツシリーズ〉、1990年9月。ISBN 9784061415010。
脚注
[編集]- ^ “名誉教授一覧”. 日本体育大学 (2019年5月1日). 2020年8月25日閲覧。
- ^ a b c d e 「藤本英男(レスリング)「金は磨かなくても光り続けるが、銀はさびてしまう。いつまでも自分を磨き続けろと言われているようだよ」」『徳島新聞』2020年3月19日。2020年8月25日閲覧。
- ^ 「花原・藤本が3位入賞 世界レスリング・グレコローマン選手権」『朝日新聞』1967年9月4日、12面。
- ^ a b “【記録】徳島県出身のオリンピック選手”. 日本レスリング協会公式サイト (2013年11月20日). 2020年8月25日閲覧。
- ^ “レスリングのオリンピック日本人男子メダリストを紹介、偉大な功績を残した3選手”. 【SPAIA】スパイア (2020年5月4日). 2020年11月14日閲覧。
- ^ 「藤本、62キロ級で初優勝 杉山(52キロ)は惜しくも2位」『朝日新聞』1970年7月8日、20面。
- ^ 「藤本(62キロ)田上(68キロ)は3位 世界レスリング グレコローマン」『朝日新聞』1971年9月6日、10面。
- ^ “全国から350人が参加し、藤本英男・日体大部長の退任記念パーティーが盛大に”. 日本レスリング協会公式サイト (2013年4月28日). 2020年8月25日閲覧。
- ^ “バックナンバー2015年09月”. タマキのナンヤラカンヤラ. 玉木正之公式WEBサイト『カメラータ・ディ・タマキ』 (2015年9月7日). 2020年8月25日閲覧。
外部リンク
[編集]- Hideo Fujimoto - Olympedia
- 藤本英男 - International Wrestling Database
- 藤本 英男(ふじもと・ひでお=Hideo Fujimoto) - 日本レスリング協会公式サイト
- 世界チャンピオン 藤本英男 - ウェイバックマシン(2007年11月2日アーカイブ分)
- 藤本英男│教員紹介│日本体育大学 日本体育大学女子短期大学部 - ウェイバックマシン(2007年12月19日アーカイブ分)