藤原諸成
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時代 | 平安時代初期 |
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生誕 | 延暦12年(793年) |
死没 | 斉衡3年4月18日(856年5月25日) |
官位 | 従四位上、右京大夫 |
主君 | 淳和天皇→仁明天皇→文徳天皇 |
氏族 | 藤原南家巨勢麻呂流 |
父母 | 父:藤原助川、母:平群秋津の娘[1] |
兄弟 | 諸成、広基 |
藤原 諸成(ふじわら の もろなり)は、平安時代初期の貴族。藤原南家巨勢麻呂流、正六位上・藤原助川の長男。官位は従四位上・右京大夫。
経歴
[編集]弘仁年間に文章生に補せられる。非常に理解が早くて賢く、文選の半分を暗唱するほどであり、大学寮内で三傑と称されたという[2]。弘仁12年(821年)修理少進に任ぜられた後、民部少丞・式部大丞を経て、淳和朝の天長3年(826年)従五位下・相模権介に叙任される。
仁明天皇の即位後まもない天長10年(833年)5月に右少弁に任ぜられるが、6月には大宰少弐に転じる。承和6年(839年)治部少輔に任ぜられたのち、式部少輔・勘解由次官・春宮亮と仁明朝中期は京官を歴任し、この間承和8年(841年)従五位上、承和12年(845年)正五位下と順調に昇進、承和15年(848年)には従四位下・右中弁に叙任された。また、承和9年(842年)に渤海使・賀福延が入京した際には、郊労使を務めている。
仁明朝末の嘉祥2年(849年)備前守として再び地方官を務めるが、嘉祥3年(850年)文徳天皇が即位すると右京大夫に転任する。仁寿3年(853年)従四位上。斉衡3年(856年)4月18日卒去。享年64。最終官位は右京大夫従四位上。
人物
[編集]才学で朋輩に後れを取ることがなかったと評され、諸成自身も生来精勤を宗とした。参議に任官されないことを恨みに思っている内に、突然急逝したという[2]。
官歴
[編集]『六国史』による。
- 弘仁年間:文章生
- 弘仁12年(821年) 2月:修理少進。9月:民部少丞
- 弘仁14年(821年) 7月:式部大丞
- 時期不詳:正六位上
- 天長3年(826年) 正月7日:従五位下。日付不詳:相模権介
- 天長10年(833年) 5月1日:右少弁。6月:大宰少弐
- 承和6年(839年) 9月7日:治部少輔
- 承和7年(840年) 6月10日:式部少輔
- 承和8年(841年) 11月20日:従五位上
- 承和9年(842年) 3月27日:郊労使(渤海使)。5月11日:兼勘解由次官。8月4日:春宮亮
- 承和13年(846年) 正月7日:正五位下
- 承和15年(848年) 正月7日:従四位下。2月14日:右中弁
- 嘉祥2年(849年) 正月13日:備前守
- 嘉祥3年(850年) 6月19日:右京大夫
- 嘉承4年(851年) 4月1日:出居侍従
- 仁寿3年(853年) 正月7日:従四位上
- 斉衡3年(856年) 4月18日:卒去(右京大夫従四位上)