藤原宇比良古
藤原 宇比良古(ふじわら の おひらこ/うひらこ、生年不詳 - 天平宝字6年6月23日(762年7月18日))[1]は、奈良時代の女官。袁比良・袁比良女・袁比良売とも記される。藤原北家の祖・贈太政大臣藤原房前の娘。太師・藤原仲麻呂の室[1]。
生涯
[編集]藤原仲麻呂の妻となり、真従・真先・訓儒麻呂・朝狩(新田部親王の娘・陽侯女王の子との説もある)・真文・児従の生母となった。
天平21年(749年)4月1日、大仏建立の功により、従五位上から正五位下に叙せられる。正倉院中倉献物牌に「藤原朝臣袁比良売献遮那仏」とある[2][3][4]。同年、改元された天平勝宝元年(749年)9月13日、さらに従四位下に叙せられ、天平宝字4年(760年)正月5日、藤原仲麻呂第への孝謙天皇の行幸の際に、従三位から正三位に昇叙される。同年12月の勅により、職掌の重い尚侍と尚蔵兼の封戸・位田・資人を男性官人と同じく全給にすることにしたのは[5]、仲麻呂の室である宇比良古がその職にあったためと推測できる[6]。
以上のように、聖武・孝謙・淳仁の3代にわたって女官として仲麻呂を支えるが、尚蔵兼尚侍・正三位の時、現役のまま、天平宝字6年(762年)に没してしまう。朝廷は絁100疋・麻布100端・鉄100挺を贈り弔った[1]。これらの賻物は喪葬令5条「職事官条」によると、正三位は絁22疋、布88端、鉄6連(60廷)のはずであるのだが、最高額の太政大臣を凌駕しており、同年10月に死去した県犬養広刀自同様、同条の別勅賜物の規定により、「別勅で賜う物はこの令には拘わらない」が適用されて賜与されたものと推定される[7]。
彼女の死は仲麻呂政権の衰退の原因のひとつとも言われ、宇比良古の死から2年後、仲麻呂の一族は滅亡することになる。
官歴
[編集]『続日本紀』による。
- 時期不詳:従五位上
- 天平21年(749年)4月1日:正五位下。天平勝宝元年9月13日:従四位下
- 時期不詳:従三位
- 天平宝字4年(760年)正月5日:(正三位)
- 時期不詳:尚蔵・尚侍
- 天平宝字6年(762年)6月23日:薨去
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『続日本紀』3新日本古典文学大系14 岩波書店、1992年
- 宇治谷孟『続日本紀 (中)』講談社学術文庫、1992年
- 『日本古代氏族人名辞典』p516、坂本太郎・平野邦雄監修、吉川弘文館、1990年
- 『日本古代人名辞典』6 - p1494・1502、竹内理三・山田英雄・平野邦雄編、吉川弘文館、1963年