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藤原義理

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

藤原 義理(ふじわら の よしまさ、生年不詳 - 長保4年5月6日1002年6月19日))は、平安時代中期の貴族藤原北家魚名流山城守藤原国隣の子。藤原南家伊勢守藤原忠邦の養子。官位従五位上出羽守

経歴

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一条朝前期の正暦4年(993年相撲節の召合で三府の佐が出居すべきところ、左兵衛佐の官人が悉く疱瘡を患っていたため、左馬助の義理が代理を務めた。のち、義理自身が左兵衛佐に遷った。

長保元年(999年)ごろ出羽守に任ぜられ、同年左大臣藤原道長に対して二匹、一斗を献上している。長保3年(1001年)3月に出羽城介信正(姓不明)を殺害した[1]。その影響によるものか明らかでないが、同年閏12月以前に出羽守を辞している。なお、この頃は藤原道長が執政であった時期で、義雅は道長の家司受領であった可能性がある。

長保4年(1002年)5月6日卒去。最終官位は前出羽守従五位上。

官歴

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脚注

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  1. ^ 『小記目録』長保3年3月16日条
  2. ^ 『小右記』
  3. ^ a b c d 『権記』
  4. ^ 『小記目録』

参考文献

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