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藤原相如

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
藤原相如
時代 平安時代中期
生誕 不詳
死没 長徳元年5月29日995年6月29日
官位 正五位下出雲守
主君 円融天皇花山天皇一条天皇
藤原道兼
氏族 藤原北家
父母 父:藤原助信、母:藤原俊連の娘
兄弟 相如、兼盛、淑如、信慶
藤原安親の娘
親任、藤原頼政室、源兼澄
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藤原 相如(ふじわら の すけゆき)は、平安時代中期の貴族歌人藤原北家右近衛中将藤原助信の子。官位正五位下出雲守

経歴

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生年は不詳だが、祖父・藤原敦忠や父・助信の年齢などから、天暦年間半ば(950年頃)生まれと推定される[1][2]。「すけ」の漢字が父と異なるのは藺相如司馬相如を意識したことが考えられる。

天延2年(974年)に円融天皇六位蔵人に補任される。この頃、保子内親王に仕える女房であった大納言の君(藤原伊尹の娘)と交際していたことが窺われる[3]。その後、五位に叙せられて蔵人を退いたらしい[4]一条朝にて出雲守を務めた[5]のちは散位[6]位階は正五位下に至る[7]

藤原道兼家司として仕えその信頼も厚かったという[8]。道兼は長徳元年(995年)4月27日に関白宣下を受けるが、間もなく病気となり5月8日に相如邸にて死去する。その悲しみのあまり相如も病を得て、道兼の四十九日の法要に立ち会えない無念さを何度も言いながら、道兼が没して僅か3週間後の同月29日に卒去。

人物

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歌人として活動するが、生前は特に優れた歌人として認められた様子がなく[9]勅撰和歌集への入集(7首)も平安時代末に編纂された『詞花和歌集』以降となっている[10]。娘も歌人として名を残している。

家集に『相如集』があり、全65首のうち自身の手によるものと想定されるものが48首採録されている。歌合など公式な場における作品や屏風歌などはなく、主に後宮の女性たちとの贈答歌によって構成されている[1]

大中臣能宣清原元輔菅原輔昭などとの交流が見られる。また、父・助信との贈答歌や父を悼む歌も存在する。

官歴

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系譜

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尊卑分脈』による。

脚注

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  1. ^ a b 福井 1975, p. 5
  2. ^ 北村 1985, p. 44.
  3. ^ 『中務集』235-237。『相如集』52-53
  4. ^ 新勅撰和歌集』巻第17
  5. ^ 『大日本史国郡司表』
  6. ^ 『相如集』序
  7. ^ 尊卑分脈
  8. ^ a b c 栄花物語』見はてぬゆめ
  9. ^ 福井 1975, p. 4
  10. ^ 『勅撰作者部類』
  11. ^ 『大間成文抄』第一下、に天喜2年とあるが年号は誤りか
  12. ^ 『親信卿記』

参考文献

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  • 福井迪子「藤原相如考」第25巻、1975年2月、CRID 1050564287933604608 
  • 北村杏子「藤原相如伝粗描」『青山學院女子短期大學紀要』第39巻、青山學院女子短期大學、1985年11月、29-46頁、CRID 1390572174529310848doi:10.34321/712ISSN 0385-6801 
  • 宮崎康充編『国司補任 第四』続群書類従完成会、1990年
  • 『尊卑分脈 第二篇』吉川弘文館、1987年