藤原為頼
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時代 | 平安時代中期 |
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生誕 | 天慶2年(939年)? |
死没 | 長徳4年(998年) |
官位 | 従四位下、摂津守 |
主君 |
花山天皇→一条天皇 昌子内親王 |
氏族 | 藤原北家良門流 |
父母 | 父:藤原雅正、母:藤原定方の娘 |
兄弟 | 為頼、為長、為時、平維将室 |
妻 | 上毛野公房の娘 |
子 | 伊祐、脩政、良道、景頼 |
藤原 為頼(ふじわら の ためより)は、平安時代中期の貴族・歌人。藤原北家良門流、刑部大輔・藤原雅正の長男。官位は従四位下・摂津守。紫式部の伯父にあたる。
経歴
[編集]安和2年(969年)円融天皇の践祚に伴って師貞親王が立坊されると、春宮少進に任ぜられる。のち春宮権大進として引き続き師貞親王に仕える一方、安芸権守・丹波守と地方官を兼ねた。またこの間、安和2年(970年)に従五位下、天元3年(980年)に従五位上と昇叙されている。
永観2年(984年)に師貞親王が即位(花山天皇)すると、寛和元年(985年)正五位下、寛和2年(986年)従四位下と急速に昇進する。しかし、同年6月に発生した寛和の変により花山天皇が退位・出家すると、以降の昇進は停滞した。
長徳2年(996年)太皇太后宮大進に任ぜられ、太皇太后・昌子内親王に仕えた。長徳4年(998年)卒去。
勅撰歌人として『拾遺和歌集』(5首)以下の勅撰和歌集に11首が入集[1]。家集『為頼集』がある。
官歴
[編集]注記のないものは『為頼集』による。
- 安和元年(969年) 8月13日:春宮少進(春宮・師貞親王)
- 天禄元年(970年) 正月7日:従五位下(春宮御給)。12月16日:安芸権守
- 天延元年(973年) 10月18日:春宮権大進
- 天元元年(978年) 2月2日:左衛門権佐
- 天元3年(980年) 正月7日:従五位上(佐功)
- 寛和元年(985年) 正月21日:丹波守。11月20日:正五位下
- 寛和2年(986年) 10月10日:従四位下(造東大寺石功)
- 正暦3年(992年) 12月5日:摂津守
- 長徳2年(996年) 3月14日:兼太皇太后宮亮(太皇太后・昌子内親王)
- 長徳4年(998年) 日付不詳:卒去[2]