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藤原為親

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
藤原為親
時代 平安時代後期
生誕 不詳
死没 承安2年2月7日1172年3月3日
別名 正字:爲親
官位 従四位上右中弁
主君 近衛天皇後白河天皇二条天皇六条天皇高倉天皇
氏族 藤原北家勧修寺流
父母 父:藤原親隆、母:藤原為隆の娘
兄弟 為親為綱親雅、最寛、全真藤原家通室、藤原光頼室、藤原成親
不詳
隆頼[1]為成、実親、寛愉、寛隆、静隆
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藤原 為親(ふじわら の ためちか)は、平安時代後期の貴族藤原北家勧修寺流参議藤原親隆の長男。官位従四位上右中弁

経歴

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保元2年(1157年従五位下から従五位上に叙され、春宮権大進に叙任される。

左衛門権佐を経て、永万元年(1165年六条天皇五位蔵人に補され、永万2年(1166年権右少弁に任ぜられる。仁安2年(1167年)左少弁に転じ、長門権守を兼ねる。嘉応2年(1170年従四位下・右中弁に叙任され、嘉応3年(1171年)従四位上・修理右宮城使に至るが、承安2年(1172年)2月7日に若くして卒去した[2]

官歴

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※以下、註釈の無いものは『弁官補任』の記載に従う。

  • 保元2年(1157年)10月22日:従五位上に叙す(親隆讓。常寧殿)。10月27日:春宮権大進を兼ぬ[3]
  • 永万元年(1165年)6月25日:五位蔵人に補す[4]。正五位下・左衛門権佐。
  • 永万2年(1166年)6月6日:権右少弁に任ず(左衛門権佐・五位蔵人を辞し之に任ず)。9月19日:装束使と為す。
  • 仁安2年(1167年)正月30日:左少弁に転じ、長門権守を兼ぬ(使勞)。12月30日:装束使を停む。
  • 嘉応2年(1170年)正月12日:右中弁に転ず。3月24日:従四位下に叙す(春日行幸行事賞)。
  • 嘉応3年(1171年)正月19日:従四位上に叙す(朝覲行幸行事賞。建春門院御給)。4月7日:修理右宮城使と為す。

系譜

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脚注

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  1. ^ a b 本名は為季
  2. ^ 玉葉承安2年2月7日条。
  3. ^ 兵範記保元2年10月22、27日条
  4. ^ 蔵人補任六條院