藤原為親
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時代 | 平安時代後期 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 承安2年2月7日(1172年3月3日) |
別名 | 正字:爲親 |
官位 | 従四位上、右中弁 |
主君 | 近衛天皇→後白河天皇→二条天皇→六条天皇→高倉天皇 |
氏族 | 藤原北家勧修寺流 |
父母 | 父:藤原親隆、母:藤原為隆の娘 |
兄弟 | 為親、為綱、親雅、最寛、全真、藤原家通室、藤原光頼室、藤原成親室 |
妻 | 不詳 |
子 | 隆頼[1]、為成、実親、寛愉、寛隆、静隆 |
藤原 為親(ふじわら の ためちか)は、平安時代後期の貴族。藤原北家勧修寺流、参議・藤原親隆の長男。官位は従四位上・右中弁。
経歴
[編集]保元2年(1157年)従五位下から従五位上に叙され、春宮権大進に叙任される。
左衛門権佐を経て、永万元年(1165年)六条天皇の五位蔵人に補され、永万2年(1166年)権右少弁に任ぜられる。仁安2年(1167年)左少弁に転じ、長門権守を兼ねる。嘉応2年(1170年)従四位下・右中弁に叙任され、嘉応3年(1171年)従四位上・修理右宮城使に至るが、承安2年(1172年)2月7日に若くして卒去した[2]。
官歴
[編集]※以下、註釈の無いものは『弁官補任』の記載に従う。
- 保元2年(1157年)10月22日:従五位上に叙す(親隆讓。常寧殿)。10月27日:春宮権大進を兼ぬ[3]。
- 永万元年(1165年)6月25日:五位蔵人に補す[4]。正五位下・左衛門権佐。
- 永万2年(1166年)6月6日:権右少弁に任ず(左衛門権佐・五位蔵人を辞し之に任ず)。9月19日:装束使と為す。
- 仁安2年(1167年)正月30日:左少弁に転じ、長門権守を兼ぬ(使勞)。12月30日:装束使を停む。
- 嘉応2年(1170年)正月12日:右中弁に転ず。3月24日:従四位下に叙す(春日行幸行事賞)。
- 嘉応3年(1171年)正月19日:従四位上に叙す(朝覲行幸行事賞。建春門院御給)。4月7日:修理右宮城使と為す。