藤原朝隆
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時代 | 平安時代後期 |
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生誕 | 承徳元年(1097年) |
死没 | 平治元年10月3日(1159年11月14日) |
別名 | 冷泉中納言 |
官位 | 正三位、権中納言 |
主君 | 鳥羽天皇→崇徳天皇→近衛天皇→後白河天皇→二条天皇 |
氏族 | 藤原北家勧修寺流 |
父母 | 父:藤原為房、母:法橋隆尊の娘 |
兄弟 | 為隆、顕隆、重隆、長隆、泰隆、寛信、朝隆、親隆、国隆、寛運、源恵、寛誉、良恵、覚隆、性修、藤原経実室、源師隆室、藤原忠教室 |
妻 | 藤原顕隆の娘 |
子 | 朝方、朝親、雅方、証朝、覚朝、藤原光頼室、藤原光房室 |
藤原 朝隆(ふじわら の ともたか)は、平安時代後期の公卿。藤原北家勧修寺流、参議・藤原為房の六男。官位は正三位・権中納言。冷泉中納言と号す。
経歴
[編集]白河院政期中期の天永元年(1110年)文章生に補せられると、修理亮・六位蔵人・左近将監を経て、永久4年(1116年)に従五位下に叙爵する。白河院政期末にかけて、弾正少弼・刑部大輔等を歴任した。
鳥羽院政期に入ると、長承2年(1133年)左衛門権佐(検非違使佐)に任ぜられると、保延2年(1136年)五位蔵人、保延3年(1137年)右少弁と次々に要職に任ぜられ、三事兼帯の栄誉に浴した。また、鳥羽天皇皇后・藤原泰子の皇后宮大進も務めている。
その後、20年近くに亘って弁官を務め、久安元年(1145年)正四位下、久安6年(1150年)蔵人頭兼右大弁に叙任されるなど昇進を重ねた。鳥羽院政期末の仁平3年(1153年)参議に任ぜられ公卿に列す。議政官として引き続き右大弁を兼帯したが、保元元年(1156年)従三位・権中納言に叙任されて、弁官を去っている。保元2年(1157年)に正三位に至る。
保元3年(1158年)致仕し、翌平治元年(1159年)10月3日薨去。享年63。最終官位は前権中納言正三位。
官歴
[編集]『公卿補任』による。
- 天永元年(1110年) 3月19日:文章生(字藤器)
- 天永4年(1113年) 正月28日:修理亮。2月3日:六位蔵人
- 永久3年(1115年) 正月29日:左近将監。4月2日:服解(父)
- 永久4年(1116年) 7月27日:従五位下
- 保安4年(1123年) 12月4日:弾正少弼
- 大治元年(1126年) 12月5日:刑部大輔
- 大治5年(1130年) 正月7日:従五位上。10月5日:勘解由次官
- 長承2年(1133年) 正月3日:左衛門権佐
- 長承3年(1134年) 3月19日:皇后宮大進(皇后・藤原泰子)
- 保延2年(1136年) 8月22日:五位蔵人[1]
- 保延3年(1137年) 10月6日:右少弁(三事兼帯)[2]
- 保延4年(1138年) 正月22日:播磨介
- 保延5年(1139年) 正月24日:信濃守、止蔵人権佐。7月28日:止大進(院号)。8月17日:内東宮昇殿
- 保延7年(1141年) 5月17日:除籍(依不勤最勝講堂童子也)。10月20日:還昇
- 永治元年(1141年) 12月2日:新帝昇殿、権右中弁
- 永治2年(1142年) 正月5日:従四位下(弁労)。11月14日:従四位上(大嘗会高陽院御給)
- 康治2年(1143年) 正月3日:還昇。正月27日:辞信濃守(以男朝方申任淡路守)
- 久安元年(1145年) 8月:造東大寺長官。11月21日:正四位下(高陽院御給)
- 久安3年(1147年) 正月28日:右中弁
- 久安4年(1148年) 10月15日:左中弁
- 久安6年(1150年) 正月29日:蔵人頭。4月28日:右大弁。6月22日:中宮亮(中宮・藤原呈子)
- 仁平元年(1151年) 3月:辞亮
- 仁平3年(1153年) 閏12月23日:参議、右大弁如元
- 久寿元年(1154年) 正月22日:兼備中権守
- 保元元年(1156年) 2月2日:従三位(去久安3年2月春日行幸行事賞、弁時)。9月13日:権中納言
- 保元2年(1157年) 8月21日:正三位(臨時、春日行幸行事賞、弁時)
- 保元3年(1158年) 2月21日:辞職(以男近江守朝方申任右少弁)
- 平治元年(1159年) 10月3日:薨去(前権中納言正三位)
系譜
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『公卿補任 第一篇』吉川弘文館、1982年
- 『尊卑分脈 第二篇』吉川弘文館、1987年