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藤原朝俊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
藤原朝俊
時代 鎌倉時代前期
生誕 不詳
死没 承久3年6月14日1221年7月5日
官位 常陸介右衛門佐
主君 後鳥羽上皇順徳天皇
氏族 藤原北家勧修寺流
父母 父:藤原朝経または藤原朝定
母:藤原親信の娘
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藤原 朝俊(ふじわら の ともとし)は、鎌倉時代初期の貴族武将藤原北家勧修寺流侍従藤原朝経の子[1]官位常陸介右衛門佐

経歴

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後鳥羽上皇順徳天皇の近臣として仕える。承応2年(1208年)に鳩を取るために朱雀門に昇り、その火が延焼して門が炎上した記事が『明月記』に見えるが、その際「ただ弓馬相撲をもって芸となす。殊に近臣なり」と紹介されており、武芸の才をもって重用されていたことがうかがわれる。

承久3年(1221年)の承久の乱においては、後鳥羽上皇の討幕計画に参加。 高倉範茂らと共に宇治方面の防衛に当たるが、宇治川の戦いにおいて鎌倉幕府軍と衝突。八田知尚佐々木高重ら諸将と共に奮戦するが、乱戦の中で三浦義村の郎党・小河経村によって討ち取られた。『六代勝事記』においてはその果敢な戦いぶりを賞賛されている。

脚注

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  1. ^ またはその兄・朝定の子とも。

出典

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