藤原有定
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時代 | 平安時代後期 |
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生誕 | 長久4年(1043年) |
死没 | 寛治8年3月18日(1094年4月5日) |
改名 | 有房(初名)→有定 |
官位 | 従五位上、淡路守 |
主君 |
白河天皇→堀河天皇 春宮少進:実仁親王 |
氏族 | 藤原北家真夏流(日野家) |
父母 | 父:藤原実綱、母:源道成の娘 |
兄弟 | 有綱、有俊、有信、有定、有長、実国、藤原宗俊室 |
妻 | 橘実成の娘 |
子 | 有隆、有幸、藤原実光室 |
藤原 有定(ふじわら の ありさだ)は、平安時代後期の貴族。藤原北家真夏流(日野家)、式部大輔・藤原実綱の四男。官位は従五位上・淡路守。
経歴
[編集]始め右大臣・藤原俊家の二合(年官の一つ)によって縫殿助に任ぜられる。俊家は、有定の姉妹がその子・宗俊に嫁いでいるので、義兄弟の父にあたる。3人の兄らが皆蔵人に補せられたのに対して、有定は蔵人に補せられることなく従五位下に叙爵され、皇太子実仁親王の春宮少進に任ぜられた。
しかし、応徳2年(1085年)11月、実仁親王が15歳で夭折すると官職を失う。その後、有定は淡路守に任官。寛治8年(1094年)正月に治国が賞されて従五位上に叙せられた。同年3月、病を患って日野に参籠するが、18日に卒去した[1]。享年52[2]。
舅にあたる藤原宗忠と親しく、有定の死去にあたって宗忠はひどく悲しんだという[1]。橘為仲とも交流があったようで、『金葉和歌集』には為仲が奥州に下る折に詠んだ歌が入集している[3]。
系譜
[編集]脚注
[編集]出典
[編集]- 『中右記』(大日本古記録収)