藤原敦宗
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時代 | 平安時代後期 |
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生誕 | 長久3年(1042年) |
死没 | 天永2年9月16日(1111年10月20日) |
官位 | 正四位下、式部権大輔 |
主君 | 後三条天皇→白河天皇→堀河天皇→鳥羽天皇 |
氏族 | 藤原北家真夏流(日野家) |
父母 | 父:藤原実政、母:藤原国成の娘 |
兄弟 |
敦宗、清宗、勝源、藤原有信室、 藤原公実室 |
妻 | 藤原公房の娘、藤原資宗の娘 |
子 | 宗兼、有成 |
藤原 敦宗(ふじわら の あつむね)は、平安時代後期の貴族・学者・儒者・漢詩人。藤原北家真夏流(日野家)、参議・藤原実政の長男。官位は正四位下・式部権大輔。
経歴
[編集]白河朝にて式部権大輔・左衛門権佐・文章博士を歴任。応徳元年(1084年)左少弁に任ぜられる(当時の官位は左衛門権佐文章博士正五位下)。寛治元年(1087年)堀河天皇が即位すると、儒者として式部大輔・藤原正家と共に昇殿を聴される。しかし、翌寛治2年(1088年)父の大宰大弐・藤原実政が宇佐八幡宮に訴えられて伊豆国への流罪となると、敦宗も連座して左少弁を解官された。
承徳2年(1098年)式部少輔に任ぜられ官界に復帰。承徳3年(1099年)従四位下に叙され、大学頭・東宮学士を歴任し、嘉承2年(1107年)鳥羽天皇の即位に前後して正四位下に至る。天仁元年(1108年)丹波守に任ぜられた。
天永2年(1111年)9月16日卒去。享年70。最終官位は式部権大輔大学頭丹波守正四位下。卒去にあたって、権中納言・藤原宗忠から「才智頗勝傍輩、可謂名儒歟」と評された[1]。
また、漢詩人としても活躍。『本朝無題詩』『本朝続文粋』などに作品が収められている。
官歴
[編集]- 時期不詳:文章生
- 延久2年(1070年) 正月:但馬掾[2]。日付不詳:文章得業生。日付不詳:式部丞[2]
- 延久年間:六位蔵人[3]
- 時期不詳:従五位下
- 承保2年(1075年) 5月14日:見刑部少輔[4]
- 承保3年(1076年) 9月12日:見右衛門権佐[5]
- 時期不明:正五位下。文章博士[6]
- 応徳元年(1084年) 8月25日:左少弁[6]。
- 応徳3年(1086年) 2月3日:摂津守、左少弁文章博士如元[7]。2月27日:修理左宮城使[7]。
- 寛治元年(1087年)12月22日:昇殿[8]
- 寛治2年(1088年)12月24日:解官(父藤原実政配流連座)[6]
- 承徳2年(1098年) 3月12日:式部少輔[9]
- 承徳3年(1099年) 正月6日:従四位下(策)[8]
- 康和4年(1102年) 7月21日:見大学頭[9]。11月1日:東宮学士[9]
- 嘉承2年(1107年) 7月?:正四位下[10]
- 天仁元年(1108年) 10月14日:丹波守[9]
- 天永2年(1111年) 9月16日:卒去(式部権大輔大学頭丹波守)[1]
系譜
[編集]『尊卑分脈』による。