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藤原師信

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
藤原 師信
時代 平安時代中期-後期
生誕 長久2年(1041年
死没 寛治8年正月10日1094年1月28日
官位 正四位上播磨守
主君 後三条天皇白河天皇堀河天皇
氏族 藤原北家道隆流
父母 父:藤原経輔、母:藤原資業の娘
兄弟 師家長房師基師信家平増誉文時
藤原頼宗の娘、藤原良綱の娘
増守の娘
公衡基信経忠、春円
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藤原 師信(ふじわら の もろのぶ)は、平安時代中期から後期にかけての貴族権大納言藤原経輔の四男。官位正四位上播磨守

経歴

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後冷泉朝にて左兵衛佐を務める。白河朝備後守丹後守と地方官を歴任した。

寛治2年(1088年堀河天皇朝覲行幸によって勧賞されて正四位上に叙される。寛治3年(1089年内蔵頭として賀茂臨時祭の記事に名がある[1]。寛治5年(1091年播磨守を兼ねる。寛治6年(1092年)公卿議の間、東方に赤雲が有った際、師信が夢想があったと告げている[2]。寛治7年(1093年)正月に昇殿を許され、同年2月に郁芳門院院別当に任ぜられる。その後、修理権大夫を務めた。

寛治8年(1094年)正月10日に飲水病により卒去[3]享年54。最終官位は正四位上行修理権大夫播磨守。

媞子内親王の院別当を務めた際、『執行万事』と評されている[4]

官歴

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系譜

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師信自身は正四位上に留まり公卿に昇っていないが、子の経忠や孫の忠能を始め、多くの公卿が出ている。また、坊門家羽林家水無瀬家、さらに支流として七条家町尻家桜井家山井家など、多くの堂上家を輩出した。

脚注

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  1. ^ 『中右記』寛治3年11月25日条
  2. ^ 『中右記』寛治6年8月21日条
  3. ^ a b 尊卑分脈』道隆流
  4. ^ 『中右記』寛治8年正月10日条
  5. ^ 『定家朝臣記』
  6. ^ a b 『水左記』
  7. ^ 『魚魯愚鈔 』
  8. ^ a b c d e 『中右記』
  9. ^ 『後二条師通記』
  10. ^ 『江記』
  11. ^ 『大間成文抄』第6
  12. ^ 菅原道真の七代孫
  13. ^ 公卿補任
  14. ^ 後冷泉天皇の落胤で高階為家の養子の為行の生母でもある。

参考文献

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