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藤原家緒

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
藤原家緒
時代 平安時代初期
生誕 延暦18年(799年
死没 天長9年3月20日832年4月24日
別名 家雄
官位 従四位上左兵衛督
主君 嵯峨天皇淳和天皇
氏族 藤原式家
父母 父:藤原緒嗣
母:蔵垣人山(または企)の娘
兄弟 家緒春津本雄忠宗、正子、藤原常嗣
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藤原 家緒(ふじわら の いえお)は、平安時代初期の貴族。名は家雄とも記される[1]藤原式家左大臣藤原緒嗣の長男。官位従四位上左兵衛督

経歴

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弘仁13年(822年従六位上から三階昇進して従五位下叙爵し、美濃介に任ぜられる。

弘仁14年(823年)従兄弟に当たる淳和天皇即位すると、従五位上・右近衛少将に叙任。天長3年(826年正五位下次いで従四位下と一挙に昇進し、左兵衛督に任ぜられる。天長8年(831年蔵人頭、天長9年(832年)正月に従四位上に叙任され公卿の座を目前にするが、同年3月20日に没した。享年34。最終官位は左兵衛督従四位上。

人物

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父・緒嗣の家風を受け継ぎ清廉な性格であった。典籍を非常によく学んだ事に加え、歩射も得意とした。大臣として朝政への参画を期待されたが、早逝したため果たせずに終わった[2]

なお、これらの評は『日本後紀』に記されたものだが、その『後紀』の撰者は父である緒嗣であり、早世した自らの子を国史で評文した記事という事になる。

官歴

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日本後紀』による。

脚注

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  1. ^ 尊卑分脈』では家緒、『類聚国史』『日本紀略』では家雄とする。
  2. ^ 『日本後紀』天長9年3月20日条
  3. ^ 『蔵人補任』

出典

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