藤原宗光
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藤原 宗光(ふじわら の むねみつ、延久2年(1070年) - 康治2年11月22日(1143年12月29日) )は、平安時代後期の貴族。藤原北家真夏流、右中弁・藤原有信の次男。官位は従四位上・式部大輔。
経歴
[編集]白河院政期にて、文章生を経て承徳2年(1098年)対策に及第。越後掾・図書権助・式部丞・六位蔵人を経て、長治3年(1106年)巡爵により従五位下に叙せられる。
のち、尾張権守を務めるが、元永2年(1119年)大内記として京官に復すと、阿波介・木工権頭を兼帯した。
鳥羽院政期の天承2年(1132年)正五位下・右衛門権佐に叙任される。その後、保延2年(1136年)従四位下、永治2年(1142年)従四位上と昇進し、この間に式部大輔に任ぜられた。
康治2年(1143年)11月22日卒去。享年74。最終官位は式部大輔従四位上。
官歴
[編集]- 承徳元年(1097年) 12月29日:見文章生[1]
- 承徳2年(1098年) 2月3日:献策[1]。12月16日:図書権助、元越後掾、見正六位上[2]
- 承徳3年(1099年) 正月23日:式部少丞[3]
- 長治元年(1104年) 4月:見式部大丞[4]
- 長治2年(1105年) 正月16日:六位蔵人[1][5]
- 長治3年(1106年) 正月5日:従五位下[1]
- 永久3年(1115年) 9月9日:見尾張権守[6]
- 元永2年(1119年) 正月:大内記[7]
- 保安2年(1121年) 正月:兼阿波介[7]
- 大治4年(1129年) 正月26日:兼木工権頭[1]
- 天承2年(1132年) 正月26日:右衛門権佐、正五位下、元大内記木工頭[1]
- 長承2年(1133年) 5月6日:左衛門権佐[1]
- 保延2年(1136年) 正月6日:従四位下[8]
- 永治2年(1142年) 正月5日:従四位上[3]
- 時期不詳:大学頭。式部大輔[9]
- 康治2年(1143年) 11月22日:卒去(式部大輔従四位上)[3]
系譜
[編集]『尊卑分脈』による。
末裔
[編集]『尊卑分脈』や実悟の「日野一流系図」では、宗光-文章博士宗業-木工権頭業茂-大膳大夫遠業-宮内少輔光遠-大膳大夫光綱と続き、光綱の子孫は三淵氏を名乗ったとされる[10]。