藤原孝範
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時代 | 平安時代末期 - 鎌倉時代初期 |
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生誕 | 保元3年(1158年) |
死没 | 天福元年8月(1233年) |
改名 | 孝範→寂尋 |
官位 | 正四位下、大学頭 |
主君 | 後鳥羽天皇→土御門天皇→順徳天皇→仲恭天皇→後堀河天皇 |
氏族 | 藤原北家冬嗣流→藤原南家貞嗣流 |
父母 | 父:藤原利永、養父:藤原永範 |
子 |
経範、保範?、邦仲 養子:宗範 |
藤原 孝範(ふじわら の たかのり)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての貴族。藤原南家貞嗣流の文章博士・藤原永範の養子。実父は藤原北家[1]の斎宮次官・藤原利永。官位は正四位下・大学頭。
経歴
[編集]文治3年(1187年)2月、文章生だった孝範は御書所の作文に列席した際、九条兼実から「名誉の士なり」と称賛された[2]。その後、上西門院(統子内親王)判官代・大内記・文章博士・大学頭・越前守等を歴任した。文章博士在任時には、承元・建暦・建保・承久の年号勘申に関わっている。
貞応元年(1222年)、清涼寺において詩会を催している。貞永元年(1232年)11月に出家して法名を寂尋とした。翌天福元年(1233年)8月、76歳で卒去。
漢詩の才に優れた文人として知られ、後高倉院の清涼寺供養願文等の多くの願文を草した他、寛喜元年(1229年)に関白・九条兼実の上表文も草している。
『柱史抄』『明文抄』『秀句抄』等の著作を残す。また『和漢兼作集』『鳩嶺集』『本朝文集』等にも詩文が残る。